2026年10月2日金曜日

有機合成化学は、現代のリベラルアーツになりつつあるのか

今回は長々と最近なんとなーく思っていることを書き出して、ChatGPTと議論した内容をまとめてみた。

まず、かつて有機合成化学は「ものを作る技術」であった。

それがいまや「世界を考える技芸」へと昇華しつつあるということだ。


有機合成化学は、何のためにあるのか。


医薬品をつくるため。

農薬をつくるため。

色素や香料、高分子、機能性材料をつくるため。


化学に素養のある諸君には想像に難くないだろう。


近代以降の有機化学は、これほどまでに「役に立つ学問」であり続けたことも珍しいと思えるほど、産業と深く結びついてきた。


19世紀に始まった有機合成は、染料、医薬、香料、ビタミン、農薬、プラスチック、電子材料へとその領域を広げ、文字通り人間の周囲に存在する物質世界を書き換えてきた。あのK. C. Nicolaouは有機合成を、 “the art and science” of constructing organic substances と表現している。有機合成は、科学の一分野であると同時に、「art」でもある。


私は最近、この「art」という言葉を以前より重く感じる。

近年は特に、有機合成化学は、産業のための高度な道具だけではなくなってきている。

それはひょっとすると、世界の構造を考えるための一種の教養――現代のリベラルアーツ――になりつつあるのではないか。

ふと、そんな考えに至ったのだ。


リベラルアーツ(Liberal Arts)の「Arts」は、もともと「芸術」ではなかった

ここでいうArtsは、美術館に展示される絵画や、ホールで演奏される音楽だけを意味しない。

Arts の源流にあるラテン語 ars は、技芸、術、体系化された実践知といった意味を持つ。

古代から中世にかけて形成された「自由七科」とも呼ばれるリベラルアーツは、文法・修辞学・弁証法からなるTriviumと、算術・幾何学・音楽・天文学からなるQuadriviumによって構成されていた。つまり、そこには現在なら日本式に言う「理系」と分類される数学や天文学も当然のように含まれていた。

重要なのは、それらが単なる職業訓練ではなかったことである。

何か特定の製品を作るためでも、特定の職に就くためだけでもない。

世界を数えること。

形を理解すること。

言葉を論理的に扱うこと。

天体の運動を読み解くこと。

そうした知的技芸を身につけることで、人間が物事を自分自身で考えられるようになる。

つまりLiberal Artsとは、本来かなり文字通りに、人を「自由」にするためのArtsだった。

だとすれば、成熟しつつある現代の有機合成化学をそこに加えることは、それほど突飛な話ではないのではないか。


有機合成を学んだ人なら、おそらく一度は奇妙な感覚を経験したことがある。


分子をつくることは、世界について考えることである


紙の上に複雑な天然物の構造式が描かれている。

環がいくつも縮環している。

不斉中心が並んでいる。

官能基が互いに邪魔をするような位置に配置されている。


最初は、ほとんど「こんなものをどうやって作るのか」としか思えないこともあるだろう。

しかし、しばらく眺めていると、ある結合が目に入る。

ここを切ればいいのではないか。

その一本の結合を逆向きに切ると、突然巨大な構造が二つの意味のある断片に分かれる。

さらに切る。

もう一度切る。

すると、理不尽なほどに構築不能に見えた分子が、知っている分子の集合体、既知反応の連鎖へと変わっていく。


これは単なる化学反応の暗記ではない。

複雑なものを、どこから分解すれば理解可能になるのか。

という思考そのものである。


E. J. Coreyが体系化したretrosynthetic analysisの核心もそこにあるのではないだろうか。CoreyとChengの著書が『The Logic of Chemical Synthesis』と題されているのは象徴的だ。複雑な分子を単純な前駆体へと論理的に分解し、到達可能な経路を生成する。その方法論は、化学であると同時に、問題解決についての一種の形式知でもある。


すなわち、有機合成を学ぶとは、

「この反応では何ができるか」

を覚えることだけではない。


むしろ、

「複雑なものを、どの単位で見るか」

「どこを切断すれば本質が現れるか」

「どの順序なら矛盾なく組み上がるか」

という思考様式を身につけることでもあるわけだ。


数学者が世界を数や構造で見るように。

物理学者が対称性や保存則で見るように。

合成化学者は世界を、結合可能性と変換可能性によって見る。


炭素―炭素結合を見ると、「そこに存在する線」ではなく、「そこをどう形成したのか」が見える。

不斉炭素を見ると、単なる四面体ではなく、「どの面から試薬を近づければ、この立体配置だけを得られるのか」という空間的な物語が見える。

分子が名詞ではなく、動詞になるのである。


時に、合成経路には「美しい」としか呼べないものがある

そして有機合成には、どうしても「正しい」「効率的」という言葉だけでは説明できない価値がある。

それが、美しさである。


例えば、十数工程必要だと思われた骨格が、一つのcascade reactionによって一挙に立ち上がる。

離れた場所に存在していた原子が、反応の瞬間に連続して結合し、複数の環と複数の不斉中心が一挙に形成される。

ほとんど同じエネルギーを持つ二つの遷移状態のうち、一方だけを触媒が選び取り、99:1という比率で一つのエナンチオマーを作る。

最終生成物を見ただけでは思いつかないような一時的な対称性を導入し、途中まで左右同じものとして扱った後、最後の数工程でその対称性を壊す。


そこには明らかに、「うまくいった」という以上の何かがある。

迂回せず、力ずくでもなく、分子自身の性質を利用して、最小限の操作で構造が立ち上がっていく。

ある種の良い数学の証明を読んだときに感じる感覚に近い。

あるいは、人によっては優れた建築物を見たときの感覚に近い。

ほかにも解き方はあったはずなのに、これ以外ではありえなかったように見える。

それを私たちは時に「美しい」といい、時に「エレガント」と呼ぶ。


実際、全合成をArtとして語ることは単なる比喩ではない。Nicolaouは、天然物全合成を知的挑戦そのものとして行う理由や、それが若い研究者に与えるproblem-solving trainingについて明確に論じている。Organic synthesis: the art and science of replicating the molecules of living nature and creating others like them in the laboratory

2018年にはさらに踏み込み、有機合成を “an advancing Art and Science for Its Own Sake” として維持する重要性を論じている。つまり、有機合成には応用先とは独立して発展させる価値がある、という主張である。


そして、我々研究者が資本主義経済社会の中で研究活動をする上で、避けて通れない問いがある。

「何に使えるのですか」

こう問われたとき、

「この分子を作ることで社会課題を解決できるようになります」

とだけ答える必要はないというイメージはあるが、そこに毎回の正しい正解はない。


しかし、新しい反応は、新しい思考方法でもあるように、

新しい全合成は、人間が物質をどこまで理解し、どこまで制御できるかという、一つの知性の到達点でもあるのではないだろうか。

例えば、現代においては創薬のモダリティが増えたからこそ、逆に見えてきたものもある。


この問題を考える背景には、製薬産業そのものの変化もある。

二十世紀の創薬では、合成低分子化合物が圧倒的な存在感を持っていた。

ところが現在、抗体、核酸医薬、遺伝子治療、細胞治療、ADC、二重・多重特異性分子、標的タンパク質分解など、治療モダリティは急速に多様化している。

2026年の Nature Reviews Drug Discovery のレビューも、過去25年間の創薬を、遺伝学・ゲノミクス・プロテオミクスの進展とともに、従来の合成低分子や天然物誘導体の外へ治療モダリティが拡張した時代として整理している。

ただし、ここから「低分子創薬は終わった」と結論を出すのは早計である。

FDAのCDERだけでも2024年には50のnovel drugが承認されているし、現在の製薬企業も低分子を主要モダリティの一つとして維持している。例えば武田薬品のR&D戦略も、一時は十数種類のモダリティへ展開した後、2025年時点ではsmall molecules、biologics、ADCs、allogeneic cell therapiesという四つへ重点化している。


したがって、ここで起きているのは「有機合成の没落」ではない。

一時的にそのような空気感や風潮があったにせよ、むしろ、有機合成だけが医薬品を作る唯一の中心言語だった時代から、複数の言語が並存する時代への移行と考えた方がよいだろう。

そして私は、この相対化こそが重要だと思う。

産業的有用性があまりにも巨大だった時代、有機合成には常に、

「何トン作れるか」

「何工程短縮できるか」

「原薬になるか」

「特許になるか」

という実践的な問いがついて回った。

もちろん、それらは現在も重要である。

しかし、現代は有機合成の価値がそれだけではなくなったことが、かえって見えやすくなった。


分子をどのように切断するか。

どの結合を最初につくるか。

どの立体情報をいつ導入するか。

分子がもともと持つ反応性をどこまで利用するか。

保護基を使うのか、それとも使わずに化学選択性で押し切るのか。


そこには、同じ目的物へ向かう無数の可能な道がある。

だから合成には「解答」だけでなく、文学のような作風が存在する。

論文のSchemeを見れば、ときに研究者の顔を知らなくても、その思想が見えることがある。


とするお、全合成はただ単に「分子を作ること」ではなく、「選択すること」でもある。

考えてみれば、全合成で研究者が実際に行っていることの大部分は、反応そのものではない。

選択である。


どの結合を切るか。

どの官能基を残すか。

何を後回しにするか。

どの不斉を利用し、どの不斉をいつ新しく作るか。

自然物の構造のどこを「本質」と見なし、どこを「偶然」と見なすか。


つまり全合成とは、物質を作る行為であると同時に、

複雑さに対して、何を重要と判断するかという営み

でもある。


だから、一つの標的分子に対して複数の全合成が存在する意味がある。

最初の全合成が達成された瞬間に、その分子についての問題が終了するわけではない。


別の研究者が別の場所で切る。

別の反応を鍵反応にする。

二十工程を十二工程にする。

十二工程を七工程にする。


あるいは工程数を減らすのではなく、自然物の生合成を思わせる経路を選ぶ。

結果として得られる分子は同じである。

しかし、そこに至るまでに提示された理解の仕方は異なる。

この点で全合成は、山頂に登ることよりも、登山道を設計することに近い。

頂上に到達したという事実だけなら一度でよい。

それでも人が別のルートを登るのは、道そのものに意味があるからだ。


一方で、分子構造そのものにも造形美がある。

さらに言えば、有機化学には合成以前の美しさもある。

分子構造そのものの美しさである。


cubaneの異様な正六面体。

heliceneの螺旋。

fullereneの閉じた曲面。

taxolの密集した立体中心。

strychnineの、ほとんど悪意すら感じるほど入り組んだ骨格。


人間が「美しい形を作ろう」と設計したわけでもないのに、原子価、軌道、立体反発、電子状態といった自然法則の結果として、そこに奇妙な造形が現れる。


しかも化学者は、その形を眺めるだけではない。

その形を組み立て直す。

彫刻家が大理石から形を取り出すのだとすれば、合成化学者は形そのものを結合から作る。

建築家が重力という制約の中で空間を設計するのなら、合成化学者は原子価と熱力学と速度論という制約の中で分子を設計する。


自由ではない。

だが、制約があるからこそ創造性が生まれる。

これはまさに技芸――ars――と呼ぶにふさわしい。


そして、先の問い「役に立つか」から少しだけ離れてみる

科学には、ときどき奇妙な逆説がある。

役に立つことだけを要求され続けると、その学問が本来持っていた知的な広がりが見えなくなる。


幾何学は土地を測るためだけに存在するのではない。

天文学は暦を作るためだけに存在するのではない。

音楽理論は儀式の音楽を書くためだけに存在するのではない。


同じように、有機合成も医薬品や材料を製造するためだけに存在するわけではないのかもしれない。

有機合成には、人間が物質世界を理解するために発明してきた、ひとつの独特な思考法が蓄積されている。


結合を切って考える。

対称性を利用する。

反応性を予測する。

三次元空間を想像する。

複数の経路を比較する。

望む結果だけでなく、副反応まで先回りして想像する。


そして、複雑さを単純さへ回帰し、再び単純さから複雑さを構築する。

これはかなり高度な「思考訓練」である。


ここで、冒頭で触れた「自由七科」に戻ろう。

二十一世紀のQuadriviumに、(有機合成)化学を置くということだ。

中世のQuadriviumには、

算術

幾何学

音楽

天文学

があった。

すなわち、

数

空間

比例

宇宙

これらは世界を理解するための異なるレンズだった。


もし二十一世紀のLiberal Artsを新しく設計するとしたら、そこに私は化学を


とりわけ有機合成化学を


置いてみたい。


なぜなら有機合成は、

「世界は何でできているか」ではなく、「世界はどのように組み替えられるか」を教える学問だからである。


分析する科学は、存在するものを理解する。

合成する科学は、存在しなかったものまで思考する。


ここには決定的な違いがある。


有機合成を学ぶと、分子を見る目が変わる。

やがて、物事を見る目そのものが少し変わる。

完成された複雑なものを見ても、その姿を絶対視しなくなる。


「これは、何からできているのだろう」

「どこで分ければ理解できるだろう」

「別の順序で組み立てることはできないだろうか」


と考えるようになる。

それは分子についての問いである。

しかし同時に、かなり普遍的な問いでもある。


複雑な問題を分解し、可能な経路を考え、制約の中から最もエレガントな解を探す。


その訓練によって人間の思考が少し自由になるのであれば、

それは古い意味での Liberal Art と呼んでもよいのではないだろうか。


有機合成化学は、産業の道具であった。

これからも、おそらくそうあり続けるだろう。


だが同時に、

一本の結合をどこに引くかを何時間も考え、

一つの立体中心の向きを制御するために触媒を設計し、

数十個の原子からなる構造を、可能な無数の経路の中からただ一つの思想によって組み上げていく。


その営みを眺めていると、これはもう単なる「製造技術」ではないと思う。

有機合成とは、物質を使って行う論理学であり、

三次元空間の中で行う修辞学であり、

自然法則という制約の上に成立する建築である。


そして、そのどれもが美しい。

だから私は、有機合成化学を「役に立つ科学」とだけ呼ぶことに、少し物足りなさを感じる。

それはものを作る術であり、

と同時に、

ものの見方を作る術でもある。

その意味で、有機合成化学は今、

現代のリベラルアーツとして読み直すことのできる学問なのだと思う。