著者: Frédéric Beltran, Enrico Bergamaschi, Ignacio Funes-Ardoiz, and Christopher J. Teskey*
背景
1:研究の背景と重要性
- α,β-不飽和カルボニル化合物の選択的還元: 合成化学において広く重要視される化学変換です。
- 選択性の決定要因: 求核剤/還元剤と反応物の「硬さ」と「軟らかさ」(HSAB則)の概念によって、1,2-付加か1,4-付加かが決まります。
- 触媒的ヒドロホウ素化: 従来の還元剤と比較して、官能基許容性が高く、選択性に優れた穏やかな還元法とされています。
- 既存手法の課題: これまでのα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化は、ほとんどが1,2-選択的でした。
2:未解決の問題点と研究のギャップ
- 環状基質への非適用性: 既存の1,4-選択的ヒドロホウ素化法は、直線状の基質に限定され、反応に必要なs-cis配座をとれない環状α,β-不飽和ケトンには適用できませんでした。
- 環状エノールボレートへのアクセス困難: この制限により、環状エノールボレートの選択的な形成が困難でした。環状エノールボレートは、アルドール反応において他のエノラートとは異なる立体選択性を示すため、合成化学的に価値があります。
- 化学量論的添加物の必要性: 従来の選択性制御は、硬さや軟らかさを調整するために化学量論的な量の添加物を必要とすることが多く、廃棄物を生じさせる課題がありました。
- 本研究の目的: 可視光という非侵襲的な外部刺激を用いることで、従来の硬さ・軟らかさの概念とは対照的に、根本的な選択性の反転を可能にする新しい手法を開発することです。
3:研究の具体的な目的と期待される成果
- 光による反応経路の制御: 光の有無のみで制御される2つの異なるメカニズムを利用し、α,β-不飽和カルボニル化合物のヒドロホウ素化において対照的な生成物を得ることを目指しました。
- 単一触媒プラットフォームの構築: これまで未解決であった環状不飽和ケトンを含む、直線状および環状の基質に対して、1,2-および1,4-ヒドロホウ素化の両方を実行できる単一の触媒システムを構築することを目的としました。
- 環状エノールボレートへの直接的アクセス: 光照射下での1,4-選択的ヒドロホウ素化により、これまで困難であった環状エノールボレートを直接合成する経路を確立します。
- ワンポットでのアルドール反応への応用: 合成した環状エノールボレートを利用し、ワンポットで立体選択的なsyn-アルドール生成物への簡便な合成ルートを提供することが期待されます。
方法
1:研究デザイン
- 触媒反応の設計: 安価で安定なコバルト錯体 CoH[PPh(OEt)2]4 を触媒として使用しました。この錯体は、可視光照射により配位子を解離させ、配位不飽和な活性種を生成することが知られています。
- 反応条件の比較: 光照射下(青色LED)と暗所の2つの条件下で反応を行い、生成物の位置選択性を比較しました。
- 基質範囲の検討: 直線状および環状の様々なα,β-不飽和ケトンを用いて、本手法の一般性を評価しました。
- メカニズム解明: 実験的検討(制御実験)と密度汎関数理論(DFT)計算を組み合わせることで、光の有無による反応メカニズムの違いを解析しました。
2:使用した主要な試薬と装置
- 触媒: CoH[PPh(OEt)2]4
- ヒドロホウ素化剤: ピナコールボラン (HBPin)
- 基質: 種々のα,β-不飽和ケトン(例:カルコン、4,4-ジメチルシクロヘキサ-2-エン-1-オンなど)
- 光源: 青色光
- 反応溶媒: ベンゼン、THFなど
3:主要な評価項目と測定方法
- 位置選択性: 生成物である飽和ケトン(1,4-還元生成物)とアリルアルコール(1,2-還元生成物)の比率を評価しました。
- 収率: 反応後の生成物の単離収率を測定しました。
- 立体選択性: ワンポットアルドール反応において、syn体とanti体のジアステレオマー比(d.r.)を評価しました。
- 反応追跡: ¹H, ¹¹B, ³¹P NMRを用いて、反応の進行や中間体の生成を追跡しました。
4:使用した計算手法
- 計算手法: 密度汎関数理論(DFT)計算。
- 計算レベル: CPCM(benzene)/B3LYP-D3/Def2TZVPP//B3LYP-D3/6-31G(d)/LANL2DZレベルで計算を実施しました。
- 目的: 暗所(18電子コバルト錯体)と光照射下(16電子コバルト錯体)での反応メカニズムの違いを理論的に解明し、観測された選択性を説明することです。
- 解析対象: 遷移状態(TS)のエネルギー障壁や中間体の安定性を計算し、反応経路を比較しました。
結果
1:光による位置選択性のスイッチング
-
直線状基質(カルコン)での選択性制御:
- 暗所: 1,4-還元生成物(飽和ケトン)が選択的に得られました。
- 光照射下: 選択性が完全に反転し、1,2-還元生成物(アリルアルコール)が得られました。
-
環状基質での選択性制御:
- 暗所: 従来法と同様に、1,2-還元生成物が得られました。
- 光照射下: これまで困難であった1,4-還元生成物(飽和ケトン)を選択的に得ることに成功しました。
2:ワンポットでのsyn選択的アルドール反応
-
環状エノールボレートの活用: 光照射下で生成した環状ボロンエノラートを単離せず、そのまま求電子剤(アルデヒド)と反応させました。
-
高いsyn選択性: ほとんどの環状エノン基質において、極めて高い選択性でsyn-アルドール生成物が得られました。これは、銅ヒドリド触媒を用いた従来法がanti選択的であるのと対照的です。
-
幅広い適用範囲: 5員環から7員環までの様々な環状基質や、芳香族、複素環、脂肪族アルデヒドに適用可能でした。
3:メカニズム解明のための実験とDFT計算
-
制御実験:
- 熱反応では光反応ほどの収率・選択性は得られませんでした。
- 1,2-還元生成物を光照射しても1,4-還元生成物にはならず、逐次的な異性化・ヒドロホウ素化の経路は否定されました。
- 暗所ではピナコールボラン非存在下で反応が進行しない一方、光照射下では触媒量で反応が進行することが示唆されました。
-
DFT計算による反応経路の比較:
- 光照射下(不飽和16電子錯体): 基質がコバルト中心に直接配位し、C=C結合へのヒドリド挿入が有利でした(エネルギー障壁 10.7 kcal/mol)。
- 暗所(飽和18電子錯体): 基質が配位できず、Co⁰錯体とラジカル中間体を経る全く異なる経路(SET機構)で反応が進行することが示唆されました(エネルギー障壁 24.9 kcal/mol)。
考察
1:光による触媒配位圏の制御と選択性スイッチ
- 発見: 可視光の照射の有無によって、コバルト触媒の配位圏を制御し、ヒドロホウ素化反応の位置選択性を1,2-付加と1,4-付加の間で自在に切り替えることに成功しました。
- 意味: これは、反応物の硬さや軟らかさを化学量論的な添加物で調整する従来のアプローチとは一線を画す、概念的に新しい選択性制御法です。
- 重要性: 光という外部刺激を用いることで、廃棄物を出すことなく、単一の触媒システムで多様な生成物を合成する道を拓きました。金属錯体の配位圏制御における光の未開拓な可能性を示しています。
2:二つの異なる反応メカニズムの解明
- 発見: DFT計算と実験により、光照射下と暗所では全く異なるメカニズムが作動していることが明らかになりました。
- 光照射下: 16電子の不飽和錯体が基質と直接相互作用し、ヒドリド移動を経て反応が進行します。
- 暗所: 18電子の飽和錯体は、Co⁰錯体を生成後、一電子移動(SET)を伴うラジカル的な経路で反応を触媒します。
- 重要性: このメカニズムの解明は、観測された選択性の違いを合理的に説明するものです。特に、暗所でのCo¹-H錯体が不活性であるという従来の定説に対し、新たな反応経路の存在を示唆しました。
3:1,4-選択性について
- 支持する先行研究:
- 銅ヒドリド触媒を用いた先駆的な研究では、1,4-選択的還元が可能でしたが、空気中で不安定な試薬が必要でした。本研究は、より取り扱いやすい試薬で同様の変換を達成しています。
- 対立または補完する先行研究:
- Evansらによるカテコールボランを用いたロジウム触媒反応は1,4-選択的ですが、直線状基質に限定されていました。本研究は、環状基質という長年の課題を解決しました。
- 環状基質のアルドール反応では、銅、スズ、チタンエノラートを用いる従来法は主にanti生成物を与えましたが、本手法は対照的にsyn生成物を高選択的に与えます。
4:光触媒反応とメカニズムについて
- 支持する先行研究:
- 遷移金属触媒において、配位子の光脱離を利用して反応のON/OFFを切り替える例は報告されていました。本研究は、この原理を反応のON/OFFではなく、選択性のスイッチングに応用した点で新しいです。
- Onishiらの研究で、CoH[PPh(OEt)2]4が可視光で配位子を解離させることは確立されていました。本研究は、この知見を基に、解離後の活性種が異なる反応性を示す可能性に着目しました。
- 本研究の独自性:
- 光を用いて反応性を制御する研究は注目されていますが、多くは酸化還元サイクルを含む光レドックス触媒です。本研究は、触媒の配位状態を光で変化させることで、非レドックス的な反応の経路を制御した点が独創的です。
5:研究の限界点
- α,β-不飽和アルデヒドへの適用限界:
- 基質としてα,β-不飽和アルデヒド(1p)を用いた場合、暗所では1,2-還元生成物のみが得られ、光照射下でもこれが主生成物となり、選択性の制御は達成できませんでした。
- 一部基質での選択性の低下:
- 特定の直線状基質(1h, 1i)では、暗所条件で生成物の混合物を与えました。
- 電子不足のアルデヒド(4k, 4l)を用いたアルドール反応では、syn選択性が低下する傾向が見られました。
- 計算モデルの単純化:
- DFT計算において、計算コスト削減のため、ホスホニット配位子のエチル基をメチル基に単純化してモデル化しています。これにより、実験結果と予測された選択性の比率に若干の差異が生じた可能性があります。
結論
- 安価なコバルト触媒を用い、光の有無だけでα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化の位置選択性を自在に制御する新しい触媒システムを開発しました。
- これまで困難であった環状ケトンの1,4-選択的ヒドロホウ素化を達成し、ワンポットで高syn選択的なアルドール反応へと展開しました。
- 実験とDFT計算から、光照射下と暗所では、それぞれ配位飽和度の異なる触媒が全く異なるメカニズムで反応を駆動していることを明らかにしました。
- 本研究は、外部刺激(光)を用いて触媒の配位圏を動的に制御することで、反応の選択性を根本から変えるという新しい戦略を提示しました。
- これにより、合成化学における反応制御の新たな可能性を示し、特に価値の高い環状エノールボレートの簡便な合成法を提供しました。
将来の展望
- この「光による配位圏制御」の概念を、他の触媒反応や不斉合成へと応用することが期待されます。
- より複雑な天然物合成など、実践的な応用への展開が今後の課題です。
用語集
- ヒドロホウ素化 (Hydroboration): 化合物に水素(H)とホウ素(B)を同時に付加させる化学反応。
- α,β-不飽和ケトン (α,β-Unsaturated Ketone): カルボニル基(C=O)に隣接して炭素-炭素二重結合(C=C)を持つ化合物。
- 1,2-付加 vs 1,4-付加 (1,2- vs 1,4-Addition): α,β-不飽和カルボニル化合物への求核攻撃の位置。1,2-付加はカルボニル炭素へ、1,4-付加はβ位の炭素への攻撃を指す。
- エノールボレート (Enolborate): ホウ素が酸素原子に結合したエノラート。アルドール反応などの中間体として重要。
- ワンポット反応 (One-pot reaction): 反応容器内で複数の反応ステップを、中間体を単離することなく連続して行う合成手法。
- DFT計算 (Density Functional Theory calculations): 電子密度を用いて分子の電子状態やエネルギーを計算する量子化学計算手法の一つ。反応メカニズムの解明に強力なツールとなる。
- 配位圏 (Coordination sphere): 中心金属イオンとそれに直接結合している配位子からなる領域。
TAKE HOME QUIZ
問1: この研究が解決しようとした、従来のα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化における主な課題は何ですか?最も適切なものを一つ選んでください。
a) 反応速度が遅いこと
b) 高価な貴金属触媒が必要なこと
c) 環状基質に対して1,4-選択的な反応が困難であったこと
d) 反応に高温条件が必要なこと
問2: この研究で用いられたコバルト錯体 CoH[PPh(OEt)2]4 は、可視光を照射されるとどのように変化しますか?
a) 触媒活性を失う
b) 配位子(ホスホナイト)を一つ解離させ、配位不飽和な16電子錯体になる
c) 酸化状態がCo(I)からCo(II)に変化する
d) 基質と不可逆的に結合する
問3: 環状ケトン基質(例:1k)を用いたヒドロホウ素化において、光の有無は生成物にどのような影響を与えましたか?
a) 光の有無に関わらず、常に1,2-還元生成物が得られた
b) 光を照射すると反応が進行しなくなり、暗所でのみ1,4-還元生成物が得られた
c) 暗所では1,2-還元生成物が、光照射下では1,4-還元生成物が選択的に得られた
d) 暗所では1,4-還元生成物が、光照射下では1,2-還元生成物が選択的に得られた
問4: 光照射下で生成した環状ボロンエノラートをアルデヒドと反応させるワンポット・アルドール反応では、主にどちらの立体異性体(ジアステレオマー)が生成しましたか?
a) anti(アンチ)体
b) syn(シン)体
c) ラセミ体(syn体とanti体の1:1混合物)
d) どちらも生成しなかった
問5: DFT計算によって示唆された、暗所条件での反応メカニズムの特徴として正しいものはどれですか?
a) 触媒が基質と直接配位し、ヒドリド移動が起こる
b) 光照射下よりも活性化エネルギーが低い
c) Co⁰錯体とラジカル中間体を経る、一電子移動(SET)を伴う経路で進行する
d) ピナコールボラン(HBPin)が無くても反応が進行する
解答
- c)
- b)
- c)
- b)
- c)