今回は、芳香族性の議論を、1,4-シクロヘキサジエンから問い直してみます。
「ベンゼンは芳香族だから安定である。」
化学を学ぶと、何度も出会う説明ですね。代表的な根拠として、よく登場するのが水素化熱の比較です。シクロヘキセンの二重結合を1本、水素化したときの発熱を測る。ベンゼンには2重結合が3本あるはずなので、水素化熱を3倍した予想と比べる。
すると、ベンゼンの水素化は予想よりも発熱が小さい。
「ほら、これが芳香族安定化です」
ホンマかいな。その「とりあえず3倍」、どこで審査通ったん?
そもそも、二重結合1本の水素化熱を、何本分でも単純に足してよいのだろうか。
ヘスの法則は、指定した反応のエンタルピーを組み合わせる関係を保証しています。
しかし、異なる分子にある二重結合が、いつも同じ水素化熱を持つことまでは保証していないのではないか?
また、反応熱の差を求めることと、その全量を特定の電子的相互作用に帰属させることも、別の作業として区別しなくてよいのか?
芳香族性に明確な定義を与えるためには、こうした参照系の振る舞いを曖昧にしたまま進むべきではないやろと考えます。そこで、今回はベンゼンを直接扱う前に、より単純な六員環の比較から始めることにしました。
まず考えたのは、次の反応です。
\[
2\,\mathrm{cyclohexene}
\longrightarrow
\mathrm{cyclohexadiene}+\mathrm{cyclohexane}
\]
「シクロヘキセン3分子」と「シクロヘキサジエン、シクロヘキセン、シクロヘキサンを各1分子」の比較から、両辺に共通するシクロヘキセンを消去した形です。
この反応は、炭素数、水素数、二重結合の総数を保存しています。もし二重結合の寄与を独立で一定のものとして扱えるなら、この比較は加成性を検査する一つの基準になると考えました。
ジエンからシクロヘキセンへの水素化熱を \(h_1\)、シクロヘキセンからシクロヘキサンへの水素化熱を \(h_2\) とすれば、上の反応のエンタルピーは、ヘスの法則により厳密に
\[
\Delta H=h_2-h_1
\]
となります。ここで注意していただきたいのは、検査するのは、その右辺がゼロになるかどうか。つまり、1本目と2本目で、水素化の発熱はホンマに同じなんかということです。ヘスの法則そのものを疑っているわけではありません。
ジエンには1,3体と1,4体がある。今回、重点を置いたのは1,4-シクロヘキサジエンです。先に1,3体を持ってくると、「そら共役してるからやろ」で話が終わりかねません。通常の直接的なπ共役鎖が、飽和炭素によって途切れている。ここでも非加成性が出るなら、「共役しているから」という一言で片づけることはできないと言えるでしょう。
もちろん、直接的なπ共役がないことは、分子内の相互作用が何もないことを意味しないです。σ骨格を介する相互作用、結合周辺の環境、環の形の影響が数字に出る可能性はある。この区別が、今回の出発点になります。
NIST Chemistry WebBookに掲載された気相の標準生成エンタルピーから、次の値を採用しました。[1–3]
| 分子 | 気相の標準生成エンタルピー/kJ mol⁻¹ | 不確かさ |
|---|---|---|
| シクロヘキサン | −123.10 | ±0.79 |
| シクロヘキセン | −4.32 | ±0.98 |
| 1,4-シクロヘキサジエン | +104.75 | ±0.59 |
したがって、298.15 Kの気相反応について、
\[
\Delta H=104.75-123.10-2(-4.32)
=\boxed{-9.71\ \mathrm{kJ\,mol^{-1}}}
\]
となりました。ゼロちゃいますやん。
NISTには別の文献値も掲載されてるので、採用する文献値や不確かさの確認は必要です。
とはいえ、採用したデータの中心値はゼロから外れています。、「二重結合2本やから、はい2倍」で済ませてよいのか、見過ごせない数字が出てきました。
では、この非加成性を量子化学計算にも聞いてみましょう。
まずはPySCFでB3LYP/def2-SVPによる構造最適化と振動解析を行い、def2-TZVPで基底関数を大きくした単一点計算も試しました。さらに、同じ構造と熱補正でωB97Xにも聞いてみます。
| PySCFでの比較 | 反応エンタルピー/kJ mol⁻¹ |
|---|---|
| B3LYP/def2-SVPで最適化・振動解析 | −7.67 |
| B3LYP/def2-TZVP一点計算+上記の熱補正 | −6.40 |
| ωB97X/def2-TZVP一点計算+同じ熱補正 | −6.58 |
お前らもゼロとは言わんのかい。
基底関数を大きくすると多少動く。でも、B3LYPからωB97Xへの変更は約0.18 kJ/mol。今回のずれが、B3LYP一人の独創的な見解という感じではありません。
たしかに、二重結合の単純加算からのずれは、計算でも負の値として現れました。
とはいえ、ここで納得すると、あとで面倒くさい人が出てきます。
「しょせんB3LYPやろ」
「構造を使い回したからちゃうん」
「熱補正が悪さしてるんちゃうん」
分かる。だいたい私みたいな人間が言うてます。
なので、念のため、同じ3分子を対象にGaussianでもやり直しました。
固定構造の単一点計算だけでなく、B3LYPとωB97Xそれぞれで構造最適化と振動解析。さらに、標準G4まで投入。
DFTではグリッドと収束条件を揃え、G4にはDFT用の基底関数を無理に当てはめず、G4による所定の複合手順を用いました。G4はCCSD(T)などを組み合わせる手法であり、単に別のDFT汎関数を試すこととは異なります。ただし、構造と振動の扱いまでDFTから完全に独立しているわけではないです。[4]
結果は次のとおりでした。
| Gaussianでの計算 | 電子成分 | ZPE | 0→298 K補正 | 反応エンタルピー |
|---|---|---|---|---|
| B3LYP/def2-TZVP・固定構造単一点 | −6.505 | +0.323 | −0.241 | −6.422 |
| ωB97X/def2-TZVP・固定構造単一点 | −6.664 | +0.323 | −0.241 | −6.582 |
| B3LYP/def2-TZVP・最適化+振動解析 | −6.435 | −0.152 | −0.155 | −6.742 |
| ωB97X/def2-TZVP・最適化+振動解析 | −6.526 | −0.197 | −0.104 | −6.826 |
| 標準G4 | −5.784 | −0.173 | −0.194 | −6.152 |
単位はすべてkJ mol⁻¹です。
G4でも、ゼロには戻りません。今回のGaussian計算は、どれも−6〜−7 kJ/mol付近です。しかも、中身を分けても、振動や熱補正が大きく変化して、発熱を小さくしたわけではなさそうです。主な差は、電子成分の段階ですでに出ています。ただし、この電子成分の差を純粋な「電子相関の効果」と呼ぶことはできないですが。。。
ここまでで、少なくとも「B3LYPだけの癖」「前回の構造や熱補正を固定したせい」「G4の未完了」「集計時のZPEの取り違え」という説明は、今回のデータからは支持されないことが確認できます。
では、実測由来の−9.71 kJ mol⁻¹と、G4の−6.15 kJ mol⁻¹の差は何なのか。
差は約3.56 kJ mol⁻¹です。
採用した生成エンタルピーの掲載不確かさを独立なものとして二乗和で伝播すると、
\[
\sqrt{0.59^2+0.79^2+(2\times0.98)^2}
\simeq2.19\ \mathrm{kJ\,mol^{-1}}
\]
となります。
だからといって、「だいたい誤差や」で解散するつもりもありません。文献間の共通の基準や、不確かさの意味も確認せずに、都合よく誤差棒を振り回したらあかん。
計算の身元確認をしたら、次は実験値の身元確認も要る。忙しいな。
通常の直接的なπ共役鎖を持たない1,4-シクロヘキサジエンの比較でも、水素化熱の加成性は自明ではなく、標準G4でも約−6 kJ/molの反応差が残る。 これは、ベンゼンの議論に進む前に押さえておくべき事実です。
すなわち、ここまでで言えることは、案外シンプルです。
通常の直接的なπ共役鎖がない1,4-シクロヘキサジエンでも、水素化熱の「一本いくら」は、そのままでは通用しない。
少なくとも今回の計算では、標準G4まで使っても約−6 kJ/molの差が残りました。
では、その差は何なのか。
環の形が変わるからか。ひずみの増減か。σ骨格を介した相互作用か。それらが混ざった結果か。
ここを調べずに、ベンゼンとの反応熱の差へ進んで、その全額に「芳香族安定化エネルギー」と名前をつけてよいのか。
ベンゼンの安定性を否定する話ではありません。
まず前提がちゃんと合うてるか見ようや、という話です。
次は実験値の出どころをたどりつつ、環を大きくしたら、この「2本なのに2倍にならない問題」がどう変わるのかを調べます。
六員環が窮屈なだけなら、部屋を広くしたら落ち着くかもしれない。広くしても残るなら、別の事情がある。
現在、8・10・12・14・16員環まで計算を延長中です。
ベンゼンの話をするつもりが、まずシクロアルケンの家の間取りを調べている。
芳香族性、思ってたより玄関までが遠いみたいですわ。
参照資料:
1. NIST Chemistry WebBook:Cyclohexane(気相熱化学)。採用値:Prosen, Johnson et al.(1946)。
2. NIST Chemistry WebBook:Cyclohexene(気相熱化学)。採用値:Steele, Chirico et al.(1996)。
3. NIST Chemistry WebBook:1,4-Cyclohexadiene(気相熱化学)。採用値:Steele, Chirico et al.(1989)。
4. L. A. Curtiss, P. C. Redfern, K. Raghavachari, Gaussian-4 theory, J. Chem. Phys. 126, 084108(2007)。
To be continued