2026年1月17日土曜日

Catch Key Points of a Paper ~0260~

論文のタイトル: Kinetic or Thermodynamic Product? Case Studies on the Formation of Regioisomers of Tetraphenyladamantanes

著者: Tim Berking, Wolfgang Frey, Clemens Richert*

雑誌名: Synthesis
巻: Volume 55, Issue 16, pp. 2473–2482
出版年: 2023
DOI: https://doi.org/10.1055/a-2097-0092


背景

1: アダマンタン誘導体と結晶化シャペロン

  • アダマンタンは、ダイヤモンド格子を構成する最小単位に相当する、高度に対称的で剛直な炭化水素です。
  • アダマンタンの橋頭位を置換した誘導体は、ナノ構造、多孔質材料、医薬品などのビルディングブロックとして重要です。
  • 特に、アルコキシフェニル基を持つテトラアリールアダマンタン(TAA)は、液体化合物を結晶内に取り込む「結晶化シャペロン」として注目されています。
  • これらは、有害物質や揮発性化合物の捕捉、あるいは液体の絶対立体配置を決定するためのツールとして利用されます。

2: 合成上の課題と研究のギャップ

  • 代表的なシャペロンであるTBro(ブロモ基含有TAA)は、これまでFriedel–Craftsアルキレーションの熱力学的安定生成物と考えられてきました。
  • しかし、従来の合成法では収率が20%以下と低く、効率的な製造が困難でした。
  • 原料のブロモアニソールには複数の反応点(ortho/para位)があるため、配向異性体(レジオアイソマー)が生成する可能性が高いことが知られていました。
  • これまで、どの異性体が真に最も安定な生成物(熱力学的支配生成物)であるかは不明確なままでした。

3: 本研究の目的と期待される成果

  • 本研究の目的は、強ブレンステッド酸存在下での反応を検証し、真の熱力学的安定異性体を特定することです。
  • ハロゲン(フッ素、塩素、臭素、ヨウ素)の種類が、生成物の配向性に与える微妙な影響を明らかにすることを目指します。
  • 得られた知見を基に、新しい結晶化シャペロンを高収率かつ高純度で提供する手法を確立します。
  • 熱力学的安定異性体の構造と特性(溶解性、結晶化能)を詳細に解析し、応用可能性を検討します。

方法

1: 研究デザインと合成スキーム

  • 本研究は、アダマンタン-1,3,5,7-テトラオール(TOA)と各種3-ハロアニソールを用いたFriedel–Craftsアルキレーションを基礎としています。
  • 反応条件(温度、酸触媒の種類と量、反応時間)を変化させ、生成する異性体の分布を調査しました。
  • さらに、一度生成した異性体混合物を強酸で処理し、異性化が進行するかを確認する熱力学的平衡試験を実施しました。
  • この手法により、速度論的に有利な生成物(初期にできるもの)と熱力学的に有利な生成物(最終的に安定なもの)を区別しました。

2: 使用した原料、試薬、選定基準

  • 原料として、TOAと3-フルオロ、3-クロロ、3-ブロモ、3-ヨードアニソールの4種を使用しました。
  • 酸触媒には、トシル酸(TosOH)およびより強力なトリフルオロメタンスルホン酸(TfOH)を選択しました。
  • 反応溶媒として、過剰量のハロアニソール(80当量)自体を用いています。
  • 酸の強度が異性化速度や副反応(エーテル結合の切断)に与える影響を評価基準としました。

3: 主要な評価項目と分析手法

  • 生成物の同定と異性体比率の決定には、1H NMR分光法を主に使用しました。
  • 各異性体の化学シフトを帰属するため、個別のピークを詳細に解析しています。
  • 単離した化合物の正確な三次元構造を確認するため、X線結晶構造解析を行いました。
  • 高分解能質量分析(EIまたはESI)により、目的物の組成を確認しました。

4: 最適化プロトコルの詳細

  • プロトコルA(長時間): トシル酸1当量を用い、140°Cで16時間加熱する条件です。
  • プロトコルB(短時間): トシル酸10当量を用い、140°Cでわずか2時間反応させる条件です。
  • プロトコルC(異性化): TfOH 10当量を用い、25°Cという温和な条件で65時間攪拌するプロセスです。
  • これらのプロトコルを比較することで、各ハロゲンにおける最適収率条件を導き出しました。

結果

1: 臭素およびヨウ素置換体の逆転現象

  • 臭素(Br)およびヨウ素(I)の場合、para位置換体(iTBroおよびiTIM)が真の熱力学的安定生成物であることが判明しました。
  • 初期に報告されていたortho置換体(TBro)は、実際には速度論的生成物に過ぎませんでした。
  • 強酸を用いた異性化プロトコルにより、iTBroの収率は従来の20%から最大91%まで飛躍的に向上しました。
  • ヨウ素置換体(iTIM)についても、短時間プロトコルで66%の良好な単離収率が得られました。

2: 塩素およびフッ素における配向性の違い

  • 塩素(Cl)の場合、ortho位とpara位の安定性が近く、複雑な異性体混合物が生成し、純粋な単一生成物の入手は困難でした。
  • 対照的に、フッ素(F)ではortho位置換体(TFM)が圧倒的に優先され、52%の収率で得られました。
  • フッ素置換体では異性化条件下でもortho位(TFM)が優勢であり、他のハロゲンとは異なる挙動を示しました。
  • これはフッ素の原子サイズが小さく、電子的な要因が立体障害を上回るためと考えられます。

3: 構造特性と結晶化能の評価

  • 熱力学生成物であるiTBroは、従来のTBroと比較して一般的な有機溶媒への溶解性が著しく低いことがわかりました。
  • X線構造解析の結果、iTBroはジクロロメタン(CH2Cl2)を安定に取り込んだ溶媒和結晶を形成しました。
  • iTBroの結晶構造では、遠位のハロゲン原子間の強力なパッキング力が溶解性の低下に寄与しています。
  • 一方で、フッ素置換体(TFM)は新たな結晶化シャペロンとしての可能性を示唆する結晶構造を示しました。

考察

1: 熱力学的安定性と立体障害の関係

  • 臭素やヨウ素のような大きなハロゲン原子では、アダマンタン核に近いortho位よりも、遠いpara位の方が立体的反発が少ないため安定化します。
  • これに対し、原子半径の小さいフッ素では、立体障害の影響が小さいためortho位が優先される結果となりました。
  • この発見は、アダマンタンのFriedel–Crafts反応において、ハロゲンの種類が配向性を決定する「微妙なバランス」を支配していることを示しています。

2: 酸触媒の役割と反応メカニズム

  • トシル酸は初期のアルキレーションに有効ですが、異性化の進行は極めて緩やかでした。
  • TfOH(トリフル酸)は、室温で速やかに「レトロFriedel–Crafts反応(脱アリール化と再アリール化)」を誘起し、平衡を達成させます。
  • 強酸を用いることで安定なWeiland中間体が生成しやすくなり、温和な条件下での異性化が可能になったと考察されます。

3: 先行研究との比較と学術的意義

  • Stetterらによる古典的な研究(1960年代)を、現代的な視点と精密なNMR分析で補完・拡張しました。
  • これまで「唯一の生成物」と思われていたものが、実は平衡状態の一部に過ぎないことを明らかにした点に意義があります。
  • 本研究は、アダマンタン化学における速度論と熱力学の制御に関する重要な教訓を提供しています。

4: 合成応用への道筋

  • 高純度・高収率で得られるiTIMやiTBroは、パラジウム触媒を用いたクロスカップリング反応の優れたビルディングブロックとなります。
  • アリール腕をさらに伸長させることで、構造的に興味深い巨大で剛直なナノ分子の合成が可能になります。
  • これは材料科学分野において、新たな三次元構造設計を容易にする成果です。

5: 研究の限界点

  • 今回特定された熱力学安定生成物(iTBro, iTIM)は溶解性が非常に低いため、結晶化シャペロンとしての汎用性には課題が残ります。
  • 良溶媒ではない分析対象(ゲスト分子)との共結晶化は困難である可能性が高いです。
  • 塩素置換体のように、安定性の差がわずかな場合は、依然として単一異性体の分離が合成上のボトルネックとなります。

結論

  • TOAとハロアニソールのFriedel–Crafts反応における、真の熱力学的安定生成物を初めて網羅的に特定しました。
  • 臭素・ヨウ素ではpara置換体、フッ素ではortho置換体が熱力学的に最安定であり、塩素は混合物を与えます。
  • 強酸(TfOH)による異性化プロトコルの確立により、これまで低収率だった化合物の高効率合成が可能となりました。

将来の展望

        • 実践への提言: 溶解性の高いTFM(フッ素体)は新たな結晶化シャペロンとして有望であり、今後の応用研究が期待されます。
        • 将来の方向性: 低溶解性の問題を克服するため、側鎖を導入した誘導体の開発が望まれます。

        用語集

        • アダマンタン (Adamantane): 籠状の構造を持つ飽和炭化水素。非常に剛直で、化学的に安定。
        • Friedel–Crafts アルキレーション: 酸触媒を用いて、芳香環にアルキル基(本研究ではアダマンタン基)を導入する有機反応。
        • 配向異性体 (Regioisomer): 分子式は同じだが、置換基が付く位置(ortho位、para位など)が異なる分子。
        • 熱力学支配生成物: 平衡状態において、自由エネルギーが最も低く、最も安定な生成物。
        • 速度論支配生成物: 反応のエネルギー障壁が最も低く、最も速く生成する生成物。必ずしも一番安定とは限らない。
        • 結晶化シャペロン (Crystallization chaperone): 結晶化しにくい液体分子などを、自らの結晶格子の中に閉じ込めて一緒に結晶化させる「介添え」分子。
        • ブレンステッド酸: プロトン(H+)を供与する物質。トシル酸やトリフル酸など。

        TAKE HOME QUIZ

        1:研究の背景と目的

        問 1: これまでの研究で、結晶化シャペロンとして知られる TBro(ブロモ基を持つ誘導体)は、反応においてどのような性質の生成物(速度論的または熱力学的)であると考えられていましたか。また、本研究ではそれがどのように修正されましたか。

        問 2: テトラアリールアダマンタン(TAA)誘導体が、化学において重要視されている主な理由は何ですか。1つ挙げてください。

        セクション2:ハロゲンの種類と配向性

        問 3: 3-ハロアニソールを原料とした場合、ハロゲンの種類(フッ素、臭素、ヨウ素)によって、最終的に得られる主生成物の置換位置(ortho位またはpara位)はどのように異なりますか。具体的に説明してください。

        問 4: 塩素(Cl)置換体において、純粋な単一異性体を得ることが困難であった理由は何ですか。

        セクション3:合成手法と反応条件

        問 5: 本研究で「異性化(Isomerization)」を促進するために使用された強力なブレンステッド酸は何ですか。また、従来のトシル酸(TosOH)と比較してどのような利点がありましたか。

        問 6: 熱力学的安定異性体である iTBro は、従来の TBro と比較して、物理的特性(特に溶解性)においてどのような違いがありますか。また、その違いが結晶化シャペロンとしての利用にどのような影響を与えますか。


        解答と解説

        問 1: 以前は TBro が熱力学的に安定な生成物であると考えられていました。しかし、本研究により、実際には iTBro(para-位置換体)が真の熱力学的安定生成物であり、TBro は速度論的生成物であったことが明らかになりました。

        問 2: 常温で液体の化合物を結晶内に取り込み、その絶対立体配置を決定するための「結晶化シャペロン」として機能するためです。

        問 3: 臭素(Br)およびヨウ素(I)の場合、アダマンタン核から遠い para位置換体(iTBro、iTIM)が熱力学的に安定な主生成物となります。一方、フッ素(F)の場合は、ortho位置換体(TFM)が優先的に生成されます。

        問 4: 塩素の場合、ortho位置換体とpara位置換体の安定性の差が非常に小さく、複雑な異性体混合物が形成されるためです。

        問 5: トリフルオロメタンスルホン酸(TfOH / トリフル酸)が使用されました。トシル酸では異性化に140℃で1週間以上かかりましたが、TfOHを使用すると25℃という温和な条件で、65時間以内に効率よく異性化を完了させることができました。

        問 6: iTBro は TBro よりも有機溶媒への溶解性が著しく低いという特徴があります。このため、それ自体が溶媒としての性質を持たないゲスト分子との共結晶化(熱的結晶化)に使用することが難しくなるという制約が生じます。

        2026年1月10日土曜日

        Catch Key Points of a Paper ~0259~

        論文のタイトル: Total Synthesis of the Norcembranoid Scabrolide B and Its Transformation into Sinuscalide C, Ineleganolide, and Horiolide

        著者: Davy S. Lin, Georg Späth, Zhanchao Meng, Lianne H. E. Wieske, Christophe Fares̀, and Alois Fürstner*

        雑誌名: Journal of the American Chemical Society 
        巻: Volume 146, Issue 35, pp. 24250–24256
        出版年:  2024
        DOI: https://doi.org/10.1021/jacs.4c09467


        背景

        1: 海洋天然物ノルセムブラノイドの重要性

        • ノルセムブラノイドは、ソフトコーラル(Sinularia属など)から単離されるポリサイクリックジテルペノイドの仲間です。
        • これらの化合物は、その驚くべき複雑なトポロジーと高密度な官能基化により、合成化学における象徴的な研究ターゲットとされてきました。
        • 特にスカブロリド A (1) とスカブロリド B (3) は姉妹化合物として知られていましたが、最近になって骨格が大きく異なることが判明しました。
        • スカブロリド A (1) が7-6-5の炭素骨格を持つ一方、スカブロリド B (3) は6-7-5の炭素三環式骨格を持っています。

        2: スカブロリド B合成の課題と研究ギャップ

        • 天然物スカブロリド Bの構造は、初期の単離報告で誤って割り当てられていたため、構造の再評価が必要とされました。
        • 天然のスカブロリド B (3) は、X線回折分析により構造が確立され、以前推定されていた構造とは異なり、6-7-5骨格を持つことが確定しました。
        • 先行研究で成功したスカブロリド A (1) への合成ルート(環閉鎖メタセシスを利用)は、この異なるトポロジーを持つスカブロリド B (3) には適用できませんでした
        • スカブロリド B (3) が持つ混み合った中央のシクロヘプテン環と橋頭エノン部位を構築するため、概念的に新しい合成戦略の開発が求められました。

        3: 研究の目的

        • ノルセムブラノイドスカブロリド B (3) の全合成を達成し、その構造を化学的に裏付けること。
        • 特に、困難な橋頭オレフィンを含む中央の七員環構造を構築するための、新規かつ効率的な合成手法(ケトンの分子内アルケニル化)を開発すること。
        • 合成したスカブロリド B (3) を起点として、関連する天然物であるシヌスカリド C (4)イネレガノリド (6)、およびホリオリド (34) へと変換し、生合成的な関連性を探ること。

        方法

        1: 新規合成戦略の概説

        • 研究デザインは、天然物(Scabrolide B)の全合成です。
        • 従来の環閉鎖メタセシス(RCM)戦略の失敗を受け、合成計画を抜本的に見直しました
        • 新しい鍵戦略として、中央の七員環(C4-C5結合)を形成するために、エノラートの分子内アルケニル化を採用しました。
        • この手法は、橋頭オレフィンを含む混み合った環状構造の形成を目指す、非常に挑戦的なアプローチでした。
        • 最終的に、最長リニアシーケンスで19ステップで目的のスカブロリド B (3) を合成しました。

        2: ビルディングブロックの調製

        • 目標分子を構築するため、二つの重要なビルディングブロックを用意しました。
        • ビルディングブロック1: (R)-ノルカルボン (19) を、ロジウム触媒による非対称1,4-付加反応と、その後の佐伯型酸化により高純度で調製しました。
        • ビルディングブロック2Z配置のアルケニルヨージド (23) を、(R)-リナロールを原料とし、Stork–Zhaoオレフィン化反応を経由して調製しました。
        • これらのビルディングブロックは、ランタノイド触媒による向山−マイケル付加により結合されることを計画しました。

        3: 鍵となる反応(断片結合)と立体制御

        • 向山−マイケル付加による断片結合を行いました。
        • 触媒としてLa(OTf)3(ランタン塩)を用い、エノン (19) とシリルケテンアセタール(23からin situ生成)を反応させました。
        • この反応により、七員環化の前駆体となる化合物 (25) が70%の収率で得られました。
        • 新規に形成されたC12-C13結合の立体配置は、ヌクレオファイルのアキシャル攻撃を経て形成され、X線回折分析により確認されました。

        4: 鍵となる反応(中央七員環の形成)

        • Pd触媒によるエノラートの分子内アルケニル化により、中央の七員環を閉じるステップを実行しました。
        • この反応は、橋頭オレフィンを含む混み合った構造を形成するため、条件の最適化が極めて重要でした。
        • 最適化の結果、Pd(PPh3)4触媒と、かさ高い2,6-ジイソプロピルフェノール/tBuOKの組み合わせを用いることで成功しました。
        • 目標とする三環式エノン (28) が約60%の収率で得られ、合成経路の核心を担う骨格が完成しました。

        結果

        1: スカブロリド B (3) の全合成

        • 鍵となる環化生成物 (28) に、アリル転位/酸化反応(O2/P(OMe)3/DBU)を適用し、単一のジアステレオマー (30) を得ました。
        • 次に、MeReO3触媒による超面性1,3-アリル転位を行い、アリルアルコール (31) へと変換しました。
        • 最終的にMnO2酸化を行うことで、ターゲット化合物である(−)-スカブロリド B (3)を合成しました。
        • 合成された物質の分析データは、天然物(「シヌスカリド D」としても知られる)と完全に一致し、X線結晶構造解析により疑いの余地なく確認されました。

        2: 関連天然物シヌスカリド C (4) への変換

        • 合成されたスカブロリド B (3) は、バージェス試薬を用いて処理されました。
        • その結果、脱水反応が起こり、関連する天然物であるシヌスカリド C (4)が良好な収率で得られました。
        • (4) の分析データも、文献データと一致しました。

        3: イネレガノリド (6) およびホリオリド (34) への生体模倣変換

        • スカブロリド B (3) を塩基性条件(Et3N/MeOH/MeCN)下で処理したところ、カスケード反応が誘発されました。
        • オキサマイケル付加(C8-OH基がエノンに付加)とC12立体中心のエピマー化が連鎖的に起こり、特徴的なテトラヒドロフラン環を持つイネレガノリド (6)が形成されました。
        • この反応を継続すると、不安定な (6) は、レトロオキサマイケル、レトロアルドール、分子内マイケル付加を含む複雑なカスケードを経て、最終的にホリオリド (34)へと変換されました。

        考察

        1: 鍵となる合成手法の成功とその重要性

        • 本研究の最も重要な発見は、極めて混み合った七員環(橋頭オレフィンを内包)を形成するための、ケトンの分子内アルケニル化という挑戦的な戦略が成功したことです。
        • この手法は、同様のひずみのある構造を持つ生成物への応用としては前例がないものであり、合成化学における大きな可能性を秘めています。
        • 最適な触媒と塩基/添加剤の組み合わせ(Pd(PPh3)4/2,6-ジイソプロピルフェノール/tBuOK)の特定が、この困難なC-C結合形成に不可欠でした。

        2: 構造確認と生合成的な意味合い

        • 全合成の成功と天然物との分析データの一致は、X線構造解析と合わせて、スカブロリド B (3) の再割り当てされた構造(6-7-5骨格)を決定的に確認しました。
        • スカブロリド B (3) からイネレガノリド (6) への塩基を介した変換は、これらの海洋ノルセムブラノイド間の未確認の生合成的リンクを模倣している可能性があります。
        • イネレガノリド (6) の特徴であるテトラヒドロフラン環が、C8-OH基のオキサマイケル付加によって後期段階で形成されることが示されました。

        3: 先行研究との相違点(骨格と経路)

        • スカブロリド A (1) と B (3) は、以前の予測に反し、炭素骨格のトポロジーが根本的に異なり(7-6-5 vs 6-7-5)、さらにC12立体中心の配置も逆でした。
        • この骨格の相違が原因で、スカブロリド A (1) の効率的な合成経路(RCMに基づく)は、スカブロリド B (3) の合成には適用不可能でした。
        • この結果は、天然物の構造的微妙な違いが、全合成において合成戦略の抜本的な変更を要求する大きな要因となることを示しています。

        4: ホリオリド形成の生体模倣カスケード

        • イネレガノリド (6) は、反応を継続すると分解し、複雑な生体模倣カスケードを経てホリオリド (34)へと変換されます。
        • このカスケードには、レトロオキサマイケル反応に続いて、レトロアルドール反応、そして分子内のマイケル付加により新しいC5-C9結合を形成するステップが含まれています。
        • このホリオリド (34) への変換プロセスは、提案されている生合成経路の一部を反映しており、スカブロリド B (3) がイネレガノリド (6) の生合成前駆体である可能性を示唆しています。

        5: 研究の限界点

        • 中央七員環を形成する鍵反応(分子内アルケニル化)において、目的生成物 (28) と共に、二量体副生成物 (29) が約29%生成し、分離が必要でした。
        • イネレガノリド (6) は、塩基性条件下で不安定であり、ホリオリド (34) へと変換されるため、イネレガノリド (6) の単離収率は低かったです。
        • スカブロリド B (3) からイネレガノリド (6) への変換におけるC12立体中心のエピマー化の正確なメカニズム(特に不可逆性)については、さらなる研究が必要です 。

        結論

        • ノルセムブラノイド Scabrolide B (3) の最初の全合成を最長19ステップで達成しました。
        • 本合成の鍵は、困難な橋頭オレフィンを含む中央七員環を、ケトンの分子内アルケニル化という新規手法により効率的に構築した点にあります。
        • 合成された Scabrolide B (3) は、シヌスカリド C (4)イネレガノリド (6)、およびホリオリド (34) へと変換され、これらの海洋天然物間の潜在的な生合成的関連性が示されました。

        将来の展望

            • ケトンの分子内アルケニル化という合成手法は、混み合った環状構造の構築に幅広い応用可能性を持ちます。
            • Scabrolide Bを介したイネレガノリドの形成メカニズムは、これらの天然物の真の生合成経路を解明するための手がかりとなるため、さらなる検証が求められます。

            用語集

            聴衆に馴染みのない専門用語について、以下に解説します。

            • ノルセムブラノイド (Norcembranoid): ソフトコーラル由来の環状ジテルペノイド(テルペンの誘導体)の総称。
            • 炭素三環式骨格 (Carbotricyclic scaffold): 三つの炭素環が融合してできた骨格。
            • 橋頭オレフィン (Bridgehead olefin): 複数の環が共有する炭素原子(橋頭位)に二重結合を持つ構造。通常、ひずみが大きく、合成が困難とされる。
            • エノン (Enone): 炭素-炭素二重結合の隣にカルボニル基(ケトン)を持つ不飽和カルボニル化合物 ($\alpha,\beta$-不飽和ケトン)。
            • 分子内アルケニル化 (Intramolecular alkenylation): 一つの分子内で、ケトンのエノラート(求核種)とビニルハライド(求電子種)がパラジウム触媒下で反応し、環を形成する反応。
            • 向山−マイケル付加 (Mukaiyama−Michael addition): シリルエノールエーテルなどの求核剤が、ルイス酸触媒(本研究ではランタノイド触媒)の存在下でエノンに付加する反応。
            • オキサマイケル付加 (Oxa-Michael addition): アルコール(酸素求核剤)が不飽和カルボニル化合物(エノン)に付加し、新しいC-O結合を形成する反応。

            TAKE HOME QUIZ

            1:構造的課題と新しい合成戦略

            問 1: 姉妹化合物であるスカブロリド A (1) とスカブロリド B (3) の炭素骨格のトポロジー(環の構成)は、どのように異なると特定されましたか。それぞれ、環のサイズを示す数字(例: 7-6-5)を使って説明してください。

            問 2: スカブロリド B (3) の全合成を成功させるために採用された、概念的に新しい鍵となる合成戦略は何でしたか。この戦略が特に挑戦的であった理由を、目標構造の部位に関連付けて説明してください。

            2:鍵反応と試薬

            問 3: 鍵となる七員環化反応の前駆体(25)は、二つのビルディングブロック(1923からin situ生成したもの)を結合することによって得られました。この結合ステップに使用された反応タイプと触媒は何ですか。

            問 4: 中央の七員環を閉じるための分子内アルケニル化反応において、この論文で成功を収めた特定の触媒と、塩基/添加剤の組み合わせは何ですか。

            問 5: 中央の七員環の形成後、目的の三環式エノン (28) に続いて行われたアリル転位/酸化反応(γ-酸化)に使用された標準的な酸化剤は何ですか。

            3:天然物への変換と生合成的示唆

            問 6: 合成されたスカブロリド B (3) から、関連する天然物であるイネレガノリド (6) が形成される際、どのような種類の反応と、どの立体中心の変化が含まれていましたか。この変換の観察が持つ潜在的な生合成的意味合いは何ですか。

            問 7: イネレガノリド (6) は、塩基性条件下で不安定であり、最終的にホリオリド (34) へと変換されました。このホリオリド形成のカスケードには、レトロオキサマイケル反応に続いて、具体的にどのような反応が含まれていますか。


            解答と解説

            問 1: スカブロリド A (1) は7-6-5の炭素三環式骨格を持つ一方、スカブロリド B (3) は6-7-5の骨格を持つという点で大きく異なります,。さらに、C12立体中心の配置も逆でした。

            問 2: 鍵となる戦略は、ケトンの分子内アルケニル化に頼るというものでした,。これは、混み合った中央のシクロヘプテン環橋頭エノン部位で構築するためであり、ひずみのある、または混み合った生成物への適用例がまれであったため、大きなリスクを伴いました。

            問 3: 向山−マイケル付加反応が使用され、触媒としてランタン塩(La(OTf)3)が用いられました。

            問 4: 触媒はPd(PPh3)4であり、これと組み合わせることで成功した塩基/添加剤は、かさ高い2,6-ジイソプロピルフェノールtBuOKの組み合わせでした。

            問 5: O2雰囲気下で、P(OMe)3DBUの存在下で反応が実行されました。

            問 6: C8−OH基のエノンへのオキサマイケル付加によって特徴的なテトラヒドロフラン環が形成され、同時にC12立体中心のエピマー化が起こりました。この観察は、これらの象徴的な海洋ノルセムブラノイド間における、これまで認識されていなかった生合成的な関連性を模倣している可能性を示唆しています。

            問 7: レトロオキサマイケル反応に続いて、レトロアルドール反応が起こり、その後、分子内マイケル付加によって新しい C5−C9 結合が形成されます。

            2025年12月20日土曜日

            Catch Key Points of a Paper ~0258~

            論文のタイトル: Reverse intersystem crossing mechanisms in doped triangulenes(ドープされたトリアンギュレンにおける逆項間交差メカニズム)

            著者: Asier E. Izu, Jon M. Matxain, and David Casanova*

            雑誌名: Physical Chemistry Chemical Physics 
            巻: Volume 26, Issue 15, pp. 11459–11468
            出版年:  2024
            DOI: https://doi.org/10.1039/D4CP00304G


            背景

            1: 研究の背景と重要性

            • 有機EL素子 (OLEDs) は、テレビやスマートフォンなどのディスプレイに広く応用され、技術市場に革命をもたらしました。
            • OLEDの性能を最適化するための探求が続けられています。
            • OLEDでは、発光に関わる一重項状態と、通常は非放射性である三重項状態が \(1:3\) の比率で生成されます。
            • この三重項状態の存在による非放射性損失を克服する主要な戦略の一つが、熱活性化遅延蛍光 (TADF) です。
            • TADFは、高価で有毒な遷移金属(例:Ir、Pt)を必要とせず、有機分子が三重項状態を蛍光性の一重項状態にリサイクルすることに依存します。

            2: 従来の課題と研究の方向性

            • 効率的なrISCを達成するためには、励起一重項と三重項の状態間のエネルギー差 ( \(\Delta E_{\text{ST}}\)) が熱エネルギー程度に小さく、かつ状態間の結合が強い必要があります。
            • 従来のTADF分子設計(ドナー-アクセプター構造)は、通常、電荷移動(CT)特性を持ち、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を小さくしますが、発光量子収率の低さや色純度の低さという欠点がありました。
            • この欠点を克服するため、畠山らにより多重共鳴TADF (MR-TADF) エミッターが提案されました。
            • MR-TADFは、HOMOとLUMOを異なる原子サイトに局在させ(disjoint MOs)、小さな\(\Delta E_{\text{ST}}\)と、大きな発光(S₀ → S₁)を両立させます。
            • 本研究は、NおよびBドープトリアンギュレンを潜在的なMR-TADF化合物として、その中心的な光物理学的ステップであるrISCのメカニズムの複雑性を解明することを目的としています。

            3: 研究の目的

            • rISCのメカニズムを解明する: NおよびBドープトリアンギュレンにおけるrISCの機構的複雑さを量子化学計算によって明らかにする。
            • 最適な分子パターンを特定する: rISC効率に寄与するドープ原子のサイズ、数、および分布を含む最適な分子パターンを特定する。
            • 計算手法の評価: TADF関連分子システムを計算で特徴づけるための様々な電子構造計算手法の適合性を評価する。
            • 洞察の提供: rISCにおける直接機構と間接機構の異なる役割を特定し、次世代OLED技術のための高度なTADF発色団設計に役立つ洞察を提供します。

            方法

            1: 研究デザイン

            • 本研究は、rISCのメカニズムを解明し、効率を評価するための計算化学研究です。
            • rISC率は、フェルミの黄金律を用いて表され、状態間の結合(\(V_{\text{rISC}}\))と一重項-三重項のエネルギー差(\(\Delta E_{\text{ST}}\))に強く依存します。
            • 一重項-三重項結合は、有機化合物では主にスピン軌道結合(SOC)が支配的であると仮定しました。
            • rISC機構として、直接機構(T₁ → S₁, 1次)と、高次三重項を介したスピン振動(間接)機構(2次)の両方を計算に取り入れました。

            2: 分子システムと計算手法の選定

            • 研究対象として、窒素および/またはホウ素でドープされた16種類のトリアンギュレンナノグラフェン分子のシリーズを調査しました (Fig. 1参照)。
            • 分子サイズ(フェナレンまたはトリアンギュレン)、ドーピング量、ドーパントの種類(BまたはN)、およびドーパントの分布の影響を理解するために、分子を選定しました。
            • \(\Delta E_{\text{ST}}\)はrISCの運動論を決定する重要なパラメーターであるため、励起エネルギーを正確に予測できる電子構造法を評価しました。
            • \(\Delta E_{\text{ST}}\)の計算において、二重励起の影響がS₁状態を安定化させるため、この効果を考慮できる手法が不可欠であると結論付けました。

            3: 最適な計算手法と評価項目

            • TDDFTベースの手法は、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を組織的に過大評価し、相関のある波動関数法と比較して大きな乖離を示すため、rISCの研究から除外されました。
            • ポストHartree–Fock法の中で、低計算負荷で二重励起を明示的に考慮するSTEOM-DLPNO-CCSDレベルの理論を採用しました。
            • 主要な評価項目は、最低励起一重項および三重項エネルギー、それらのエネルギー差 (\(\Delta E_{\text{ST}}\))、およびS₁/T₁間のSOC定数(SOCC)です。

            4: rISC率の計算詳細

            • 間接rISC率の計算では、中間状態である三重項-三重項振動相互作用(\(\langle \text{T}_n | \hat{H}_{\mathrm{vib}} | \text{T}_1 \rangle\))を明示的に計算せず、弱 (1 meV)、中 (10 meV)、強 (100 meV) の3つの定数を仮定しました。
            • rISC率の計算に必要な再配列エネルギー (\(\lambda\)) は、有機発色団で一般的な値である 0.1 eV に固定されました。
            • 近接縮退する最低三重項状態の集団は、ボルツマン分布に従って熱平衡にあると仮定し、rISC率を評価しました。

            結果

            1: 一重項–三重項エネルギーギャップ (\(\Delta E_{\text{ST}}\)) の分布

            • STEOM-DLPNO-CCSD法により計算された多くの分子は、 S₁とT₁間に比較的小さなギャップを示しました(Fig. 3a参照)。
            • 構造 1B, 2NB3b, 2B4N3 など、いくつかの分子では、\(\Delta E_{\text{ST}} < 0 \) の反転ギャップが特徴的に見られました。
            • この反転ギャップはrISCの駆動力になり得ますが、過度に負の値は迅速なrISCを妨げる可能性があります。
            • 1BN3a1NB3a のように\(\Delta E_{\text{ST}}\)が大きすぎる化合物(> 0.5 eV)では、熱エネルギーではrISCはエネルギー的に実行不可能になると予測されました。

            2: 直接 rISC率とSOC定数 

            • ほとんどの分子において、S₁とT₁間のSOC定数 (SOCC) は、有機π共役分子の期待通り、通常は非常に小さかったです(SOCC < 0.1 cm-1, Fig. 3b参照)。
            • 直接rISC率 (\(k^{(d)}_{\text{rISC}}\)) は、\(\Delta E_{\text{ST}}\)が小さく、S₁/T₁SOCが非ゼロの化合物で最も高くなりました(Fig. 4参照)。
            • 特に、1B, 2NB3b, 2B4N3, 2NB3a が最高の \(k^{(d)}_{\text{rISC}}\) 値を示しました。
            • 対照的に、1N2N4B3などの分子ではS₁とT₁間のSOCが消失し、直接T₁ → S₁遷移は完全に妨げられました (\(k^{(d)}_{\text{rISC}} = 0\))。

            3: 間接rISCメカニズムの優位性 (Fig. 4)

            • 高次三重項状態を介したスピン振動(間接)メカニズム (\(k^{(m)}_{\text{rISC}}\)) は、S₁/T₁SOCがゼロの分子だけでなく、広く効率的である可能性があります。
            • 例えば、2BN3bでは、弱い振動結合体制であってもスピン振動メカニズムが支配的でした。
            • 間接rISCに最も大きく寄与する三重項状態は、エネルギー的に最も近いT₂ではなく、S₁と強いSOCを持ち、T₁とのエネルギーギャップが大きすぎないT4からT6の状態であることが多いです。
            • 振動結合の強度次第では、直接メカニズムとスピン振動メカニズムが同程度の大きさになることが多く観察されました。

            考察

            1: rISC機構の役割と対称性の影響

            • 主要な発見1:対称性による直接rISCの非活性化と間接メカニズムの重要性
            • 多くのドープトリアンギュレンでは、分子の対称性選択則によりS₁とT₁間のSOCがゼロになり、直接的なT₁→ S₁の遷移(直接rISC)が妨げられます。
            • このような分子であっても、高次三重項を介したスピン振動(間接)メカニズムは非常に有効であり、小さな\(\Delta E_{\text{ST}}\)を持つナノグラフェンにおける三重項状態の集団形成に極めて重要です。
            • 間接状態として機能するのは、エネルギー的に近いT₁やT₂ではなく、S₁とのSOCが強いT4T6の状態であるという知見は、計算研究において複数の高次三重項を考慮する必要性を示しています。

            2: 分子設計とrISC効率への影響

            • 主要な発見2:分子構造とドーパント分布の最適化
            • 一般に、特定の分子骨格およびドーピングパターン内では、N原子よりもB原子の数が多い構造(例:2B4N3)の方が、rISCがより効率的である傾向があります。
            • π共役の度合いは重要な要因であり、共役が大きいほどS₁状態がT₁状態よりも安定化され、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を減少させます。
            • ドーパント原子AとXの分布では、ドーパント間の分離が大きいほど\(\Delta E_{\text{ST}}\)が大きくなるため、2AX3b構造が効率的なrISCにとって最適な構造であることが示されました。
            • ドーパントの量とrISC率の間に明確な相関は確立されていませんが、一般的にドーパントの数が多いほどrISCを促進する傾向があります。

            3: 計算方法論の検証と先行研究

            • TADF分子の励起エネルギーを正確に評価するためには、S₁状態を安定化させる二重励起の影響を考慮に入れる必要があります。
            • DFTベースの手法(TDDFT)は、二重励起の寄与を捉えきれないため、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を常に過大評価し、B, Nドープトリアンギュレンの研究には不適切であることが分かりました。
            • 本研究で採用したSTEOM-DLPNO-CCSDは、ADC(3)などの高精度な参照計算と比較して、最も信頼性の高い励起エネルギーを提供し、MR-TADF有機分子の研究に適しています。

            4: \(\Delta E_{\text{ST}}\)とSOCのメカニズム

            • \(\Delta E_{\text{ST}}\)は、励起に関わる電子と正孔の間の交換相互作用によって大きく決定されます。
            • この交換相互作用は、フロンティア分子軌道(HOMOとLUMO)の重なりに比例します。
            • 例えば、軌道の重なりがほとんどない(disjointな)2N4B3は非常に小さな\(\Delta E_{\text{ST}}\)を示し、これはMR-TADF発色団が目指す特性(disjoint HOMO/LUMO)と一致します。
            • 非ゼロのSOCが発生するためには、分子の対称性が関わるエル・サヤド則が重要です。例えば、1NB3aが高いSOCCを示したのは、S₁がπT₁がππ*という異なる電子特性を持っていたためです。

            5: 研究の限界点

            • 本研究では、直接経路とスピン振動経路間の量子干渉効果を考慮に入れていません。この干渉は、rISC率を相乗的に増減させる可能性があります。
            • スピン反転TDDFT (SF-TDDFT) は、高い対称性(D3hまたはC3h)を持つ研究対象分子において、スピン混合特性が顕著であったため、結果が信頼できず、議論から除外されました。
            • 間接rISC率の計算で使用した摂動アプローチは、T₁/Tnエネルギーギャップが非常に小さい場合に発散する限界がありますが、本研究では熱平衡の仮定を用いてこの制限を克服しました。

            結論

            • 主要な知見: ドープトリアンギュレンにおけるrISCは、対称性により直接機構が阻害されることが多く、高次三重項を介したスピン振動(間接)メカニズムが極めて重要です。
            • 分子設計への貢献: 効率的なMR-TADF化合物は、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を適切に調整するために、より多くのB原子を含み、最適なドーパント分布(2AX3bなど)を持つべきであるという指針が提供されました。
            • 計算手法の提言: TADF分子の励起状態の研究には、二重励起を考慮したSTEOM-DLPNO-CCSDなどの相関のある波動関数法が最も信頼できる方法論であると確認されました。

            将来の展望

              • 本研究の包括的な分析結果は、次世代OLED技術向けの効率的なMR-TADF発色団を設計するための貴重な洞察を提供します。

              用語集

              • TADF (Thermally Activated Delayed Fluorescence: 熱活性化遅延蛍光): 三重項励起状態のエネルギーを熱エネルギーを使って一重項状態に戻し、光(蛍光)として再利用する現象。
              • rISC (Reverse Intersystem Crossing: 逆項間交差): 三重項励起状態から一重項励起状態へのスピン反転を伴う遷移プロセス。
              • DEST (\(\Delta E_{\text{ST}}\)): 最低励起一重項状態 (S₁) と最低励起三重項状態 (T₁) の間のエネルギー差 (\(\Delta E_{\text{ST}} = E(S₁) - E(T₁)\))。rISC効率に重要とされる。
              • SOC (Spin–Orbit Coupling: スピン軌道結合): スピンの異なる状態間を結合させる相対論的な相互作用。

              TAKE HOME QUIZ

              1: 基礎概念と背景 (Basic Concepts and Background)

              問1. TADFとMR-TADFに関する説明として、最も不適切なものはどれですか? 

              a. TADFは、熱活性化遅延蛍光の略であり、三重項励起状態を蛍光性の一重項励起状態にリサイクルする現象に依存する。 

              b. TADFは、高価で毒性のある遷移金属(例:IrやPt)を必要としない。 

              c. 従来のTADF分子設計(ドナー・アクセプター構造)は、しばしばチャージトランスファー(CT)特性を持ち、結果として発光量子収率(PLQY)が低くなるという欠点があった。 

              d. MR-TADF化合物は、HOMOとLUMOを同じ原子サイトに局在させることで、大きな発光双極子モーメント(S₀ → S₁)を実現する。

              問2. 効率的なrISC(逆項間交差)に不可欠な二つの主要な条件は何ですか? 

              a. \(\Delta E_{\text{ST}}\)が非常に大きく(0.5 eV超)、スピン軌道結合(SOC)が非常に小さいこと。 

              b. \(\Delta E_{\text{ST}}\)が熱エネルギー程度に小さく、初期状態(三重項)と最終状態(一重項)の間に強い結合(SOCなど)があること。 

              c. \(\Delta E_{\text{ST}}\)が負の値(反転ギャップ)であり、振動結合が無視できるほど弱いこと。 

              d. 分子構造が剛直で、発光量子収率が低いこと。

              2: 方法論と計算手法 (Methodology and Computational Methods)

              問3. 本研究において、励起エネルギーの計算手法としてTDDFTが不適切であると判断された主な理由は何ですか? 

              a. TDDFTは計算コストが高すぎるため。 

              b. TDDFTは、S₁状態を安定化させる二重励起の寄与を考慮できず、その結果、\(\Delta E_{\text{ST}}\)を相関のある波動関数法と比較して組織的に過大評価するため。 

              c. TDDFTは、トリアンギュレン分子のC3h対称性を正確に扱えないため。 

              d. TDDFTは、rISC率の計算に必要な再配列エネルギー \(\lambda\) を計算できないため。

              問4. 本研究でrISC率の計算に採用された最も信頼性の高いポストHartree–Fock法は何ですか? 

              a. CIS(D) 

              b. EOM-CCSD 

              c. SF-TDDFT 

              d. STEOM-DLPNO-CCSD

              問5. rISCの間接(スピン振動)メカニズムを計算する際、中間状態である三重項-三重項振動相互作用 $hT_n | \hat{H}_{vib} | T_1 i$ の値として、本研究ではどのようなアプローチが取られましたか? 

              a. 正確な値が解析的に計算された。 

              b. 0.1 eVの固定値が使用された。 

              c. 弱い(1 meV)、中間(10 meV)、強い(100 meV)の3つの定数が仮定された。 

              d. ボルツマン分布を用いて温度依存性が導入された。

              3: 主要な結果と考察 (Key Results and Discussion)

              問6. 多くのドープトリアンギュレンにおいて、直接rISC(\(k^{(d)}_{\text{rISC}}\))が阻害されたり完全に消失したりする主な要因は何ですか? 

              a. 分子が高い \(\Delta E_{\text{ST}}\)を持つため。 

              b. T₁/S₁間のスピン軌道結合(SOC)が、分子の対称性選択則によってゼロになるため。 

              c. N原子よりもB原子の数が少ないため。 

              d. π共役が過度に大きいため。

              問7. 間接rISCメカニズム(\(k^{(m)}_{\text{rISC}}\))において、rISCを間接するのに最も大きく寄与する三重項状態(Tn)の特徴として、本研究で判明したことは何ですか? 

              a. エネルギー的に最も近いT₂である。 

              b. T₁に最も近いエネルギーを持つ状態である。 

              c. S₁と強いSOCを持ち、かつT₁とのエネルギーギャップが大きすぎないT4からT6などの高次三重項状態であることが多い。 

              d. T₁とS₁の両方とSOCがゼロである状態。

              問8. 効率的なrISCを促進する分子設計の指針として、本研究で特定された傾向はどれですか? 

              a. N原子よりもB原子の数が少ない構造。 

              b. π共役を最小化すること。 

              c. ドーパント原子間の分離が大きい構造 (例: 2AX3c)。 

              d. 一般に、B原子がN原子よりも多い構造(例:2B4N3)であり、ドーパント分布は2AX3b構造のように最適化されていること。


              解答と解説

              答え理由
              1dMR-TADFは、HOMOとLUMOを異なる原子サイトに局在させ(disjoint MOs)、小さな \(\Delta E_{\text{ST}}\)と、大きなS₀ → S₁遷移双極子モーメントを両立させる。
              2b効率的なrISCは、\(\Delta E_{\text{ST}}\)が熱エネルギー程度に小さいことと、SOCなどによる強い状態間結合を必要とする。
              3bTDDFTは二重励起の寄与を捉えきれないため、S₁が過剰に不安定化され、結果として\(\Delta E_{\text{ST}}\)を系統的に過大評価する。
              4dSTEOM-DLPNO-CCSDは、二重励起を明示的に考慮し、かつADC(3)などの高精度な参照計算と比較して最も信頼性の高い励起エネルギーを提供すると結論付けられた。
              5c三重項-三重項振動相互作用は明示的に計算されず、代わりに弱い(1 meV)、中間(10 meV)、強い(100 meV)の3つの定数が仮定された。
              6b多くの分子では、S₁とT₁が同じ対称性を持つため(例:1N)、対称性選択則によりSOCがゼロになり、直接rISCが禁止される。
              7c間接メカニズムに寄与するのは、T₂ではなく、S₁と強いSOCを持ち、T₁とエネルギーギャップが大きすぎないT4からT6などの高次三重項状態であることが多い。
              8dより多くのB原子を持つ構造が一般的に効率的であり、ドーパント原子間の分離が最適化された2AX3b構造が効率的なrISCに最適であると示された。

              2025年12月13日土曜日

              対称性と電子遷移~その4~水分子を例に「軌道の対称性と原子軌道の線形結合」を理解する試み

              SALC(対称適合線形結合)とは、分子の対称性に従って原子軌道を組み合わせ、分子軌道の基底関数を構築する方法です。点群の既約表現を用いることで、軌道の対称性を明確に分類できます。まず、「SALC」の意味と構築方法を、水分子(H₂O)を例にして解説します。群論の応用の中でもSALCは「分子軌道理論と対称性の橋渡し」となる重要な概念です。


              1: SALCとは何か?なぜ必要なのか?

              定義:

              SALC(Symmetry Adapted Linear Combination)とは、分子の対称性に従って、複数の原子軌道を線形結合して、分子軌道の基底関数を構築する方法です。

              なぜ必要?

              • 分子軌道(MO)は原子軌道(AO)の組み合わせでできている
              • しかし、どのAOが結合できるかは対称性で決まる
              • SALCを使えば、群論的に正しい組み合わせを選べる

              2: 水分子(H₂O)を例にSALCを構築する

              ステップ①:点群の確認

              • 水分子はC₂v点群に属する(操作:E, C₂, σvσv')

              ステップ②:関与する原子軌道の選定

              • 配位子(水素原子)H₁, H₂の1s軌道を対象とする
              • 中心原子(酸素)は後で結合相手として使う

              3: SALC構築の手順(水素1s軌道)

              ステップ①:各対称操作で軌道がどう変化するかを調べる

              原子軌道ベクトル:

              • H₁ = φ₁
              • H₂ = φ₂

              ステップ②:分子の対称性に従った線形結合(SALC)を作る。

              線形結合を考える場合、
              対称な組み合わせ:
              \[ \psi_1 = \phi_1 + \phi_2 \]
              反対称な組み合わせ:
              \[ \psi_2 = \phi_1 - \phi_2 \]

              操作による変化:

              操作 φ₁ φ₂ φ₁ + φ₂ φ₁ – φ₂
              E φ₁ φ₂ φ₁ + φ₂ φ₁ – φ₂
              C φ₂ φ₁ φ₂ + φ₁ = φ₁ + φ₂ φ₂ – φ₁ = –(φ₁ – φ₂)
              σv φ₂ φ₁ φ₂ + φ₁ = φ₁ + φ₂ φ₂ – φ₁ = –(φ₁ – φ₂)
              σv' φ₁ φ₂ φ₁ + φ₂ φ₁ – φ₂

              → φ₁ + φ₂ はすべての操作で不変 → A₁表現に属するSALC
              → φ₁ – φ₂ はC₂とσvで符号反転 → B₁表現に属するSALC


               4. SALCの意味と使い方

              SALC = φ₁ + φ₂(A₁)

              • 対称性が高い
              • 酸素の2s軌道や2pz軌道(A₁)と結合可能

              SALC = φ₁ – φ₂(B₁)

              • 左右非対称
              • 酸素の2px軌道(B₁)と結合可能

              SALCの表現と酸素の軌道の表現が一致するものだけが結合可能!


              5. SALCを使った分子軌道構築(MO理論)

              SALC 酸素軌道 結合性 MOの性質
              φ₁ + φ₂(A₁) 2s, 2pz(A₁) 結合性軌道(σ)
              φ₁ – φ₂(B₁) 2px(B₁) 結合性軌道(π)
              φ₁ – φ₂(B₁) 2s, 2pz(A₁) 対称性が合わず非結合

              このように、SALCを使えば、結合可能な軌道のペアを群論的に判定できる。また、2py(B₂) → SALCに対応する軌道がない → 非結合性軌道として残る。


              まとめ:SALCの本質と水分子での応用

              ステップ 内容 群論的意味
              原子軌道の選定 H₁, H₂の1s軌道 配位子軌道の基底
              対称操作の適用 φ₁ + φ₂, φ₁ – φ₂ 可約表現の構築
              SALCの抽出 A₁, B₁表現に分解 既約表現に分類
              MO構築 酸素軌道と結合 対称性が一致するもののみ


              2025年12月6日土曜日

              Catch Key Points of a Paper ~0257~

              論文のタイトル: From Triplet to Twist: The Photochemical E/Z-Isomerization Pathway of the Near-Infrared Photoswitch peri-Anthracenethioindigo

              著者: Martina Hartinger+, Maximilian Herm+, Christoph Schüßlbauer, Laura Köttner, Dirk Guldi,* Henry Dube,* and Carolin Müller*

              雑誌名: Angewandte Chemie International Edition 
              巻: Volume 64, Issue 38, pp. e202510626
              出版年:  2025
              DOI: https://doi.org/10.1002/anie.202510626


              背景

              1: 光スイッチの重要性と既存の課題

              • 光スイッチおよび分子モーターは、光エネルギーを構造的・電子的特性の可逆的な変化、または指向性のある機械的運動に変換する分子構造である。
              • これらは、分子機械、触媒作用、材料科学、ケミカルバイオロジー など、幅広い分野で応用される可能性がある。
              • 応用を妨げる最大の課題の一つは、プロセスを駆動するために高エネルギーの光(主にUVまたは青色光)に依存していることである。
              • 高エネルギー光は、望ましくない光破壊効果、組織への不十分な浸透深度、細胞損傷を引き起こす。
              • 近年、この制限を克服するため、赤色光応答性システム の開発に研究の焦点が移っている。

              2: NIR光スイッチPATの登場と残された疑問

              • これまでの赤色光応答性システムの多くは、熱的な逆反応に依存したり、逆光反応に高エネルギーの可視光を必要としたり、準安定異性体の熱半減期が短いという課題があった。
              • ごく最近、peri-anthracenethioindigo (PAT) が、オール赤色光応答性光スイッチとして導入された。
              • PATは、π-拡張チオインディゴイド光スイッチであり、E体とZ体の両方が赤色光から近赤外 (NIR) 領域の光を吸収するという画期的な特性を持つ。
              • PATは、高い熱安定性や大きな量子収率など、優れた特性を示す。
              • しかし、この非常に新しい光スイッチング分野への追加要素であるPATの励起状態異性化メカニズムは、これまで全く理解されていなかった

              3: 研究の目的

              • 本研究は、理論計算と実験手法を組み合わせたアプローチを用いて、PAT光スイッチの異性化経路を探求することを目的とする。
              • この研究の具体的な目的は、PATの光異性化メカニズムを詳細に解明することである。
              • 期待される成果は、チオインディゴイドの光化学に関する深い理解を可能にし、より優れた性能と機能を持つチオインディゴイド系光スイッチの合理的かつ体系的な設計・開発のための道筋をつけることである。
              • 本研究は、超高速過渡吸収分光法と量子化学計算を組み合わせて、PATの励起状態の性質とダイナミクスに関する包括的な洞察を提供する。

              方法

              1: 研究デザイン

              • 本研究は、理論的アプローチ実験的アプローチを組み合わせた複合的な戦略を採用した。
              • 静的アプローチ(理論):量子化学計算に基づき、提案された異性化座標に沿ったポテンシャルエネルギー面 (PES) を明らかにした。
              • 動的アプローチ(実験):フェムト秒およびナノ秒過渡吸収分光法を用いて、励起状態のダイナミクスを調査した。
              • 計算された反応経路に沿った主要な幾何学的構造でのシミュレーション過渡吸収スペクトルは、実験データの解釈を導くために使用された。

              2: 研究サンプルと計算モデル

              • 実験的に、PAT光スイッチの1b(メシチル基を持つ)が超高速過渡吸収分光法のために調査された。
              • 量子化学計算には、1a1bの両方が使用された。
              • 計算コストを削減しつつ定性的な精度を維持するため、メシチル置換基を水素原子に置き換えた単純化モデル1aが計算に採用された。
              • 1a1bは、主要な電荷移動遷移にメシチル基が関与しないため、類似した電子的挙動を示すことが確認されている。

              3: 理論的測定と計算手法

              • 定常状態吸収分光法を用いて、フランク–コンドン領域における光励起の影響を調査した。
              • 励起エネルギー計算には、時間依存密度汎関数理論 (TD-DFT)二次代数図解構成 (ADC(2)) が使用された。
              • E/Z異性化を記述するために、中心のSC=CSねじれ角に沿ったT₁表面での緩和スキャンが実行された(180°から0°の範囲)。
              • ねじれ角の関数として、S₀, S₁, T₁のエネルギー曲線を計算し、スピン軌道カップリング (SOC) を評価した。

              4実験的測定とデータ解析

              • 超高速プロセスをモニターするためにフェムト秒過渡吸収分光法が用いられた。
              • 励起状態の完全な減衰を観測するためにナノ秒過渡吸収実験が実施された。
              • E-to-Z異性化は750 nm励起、Z-to-E異性化は550 nm励起で行われた。
              • データ解析にはグローバル寿命解析が適用され、特徴的な時間定数が特定された。

              結果

              1: 吸収特性と励起状態の性質

              • PAT (1b) のE-異性体は725 nmに、Z-異性体は550 nmに、幅広い強度の低いエネルギー吸収帯を示す。(図2a参照)
              • これらの低エネルギー吸収は電荷移動 (CT) 遷移に起因しており、励起時に電子密度が硫黄原子、アントラセン、中心二重結合からチオインディゴおよびカルボニル断片へと移動する。
              • この励起により、中心の異性化可能な二重結合が破壊される
              • 計算により、フランク–コンドン幾何構造において、S₁とT₂がほぼ縮退していることが示され、S₁/T₂のSOC (2.14 cm-1) はS₁/T₁のSOC (0.06 cm-1) よりも大きいことが示された。

              2: E-to-Z異性化のダイナミクス(三重項経路)

              • E-to-Z光異性化の動的解析から、3つの特徴的な時間定数(13 ps, 153 ps, 35 ns)が特定された。
                • 13 ps: 振動冷却およびホットS₁状態からS₁ミニマムへの緩和。
                • 153 ps: S₁からT₁への項間交差 (ISC)。硫黄原子による重原子効果がこの比較的速いISCを引き起こす。
                • 35 ns: T₁励起状態の減衰と、安定な光生成物であるZ-異性体の形成(E-to-Z異性化)。
              • T₁ポテンシャルエネルギー曲線は、異性化座標に沿って比較的平坦であり、二つの極小(平面型 \( \text{T}_1^{E} \) と垂直型 \( \text{T}_1^{\text{prep}} \))が存在する(図3d参照)。
              • S₀S₁のPESは、90°のねじれ角付近で最大値に達し、垂直幾何学構造は一重項多様体内でエネルギー的に到達不可能である。
              • 結論として、1b-Eの光異性化は三重項励起状態から排他的に起こることが示された。

              3: Z-to-E異性化のダイナミクス(デュアル経路)

              • Z-to-E光異性化の動的解析から、4つの特徴的な時間定数(8 ps, 17 ps, 154 ps, 31 ns)が特定された。
              • 8 ps: 振動冷却およびS₁表面上の2つの異なる局所極小(平面型 \( \text{S}_1^{\text{min, 1}} \) とねじれ型 \( \text{S}_1^{\text{min, 2}} \))への分岐。
              • 17 ps: 平面型 \( \text{S}_1^{\text{min, 1}} \) コンフォーマーの非放射的減衰(S₁ → S₀緩和)。これは非生産的な脱活性化経路である。
              • 154 ps: ねじれ型 \( \text{S}_1^{\text{min, 2}} \) コンフォーマーのT₁へのISC。
              • 31 ns: T₁の減衰と、光生成物であるE-異性体の形成(Z-to-E異性化)。
              • Z-to-E異性化もT₁を介して進行するが、超高速の脱活性化チャネルが加わることが判明した。

              考察

              1: E-to-Zの三重項支配

              • 主要な発見: E-to-Z異性化は、一重項励起状態での光異性化がエネルギー的に非常に不利であるため、三重項多様体 (T₁) を介して生産的に進行する。
              • 意味と重要性: T₁ポテンシャルエネルギー曲線が比較的平坦であるため、ねじれ(異性化)への障壁がS₁経路よりも低く、有利な経路となる。
              • T₁の垂直配置 (\( \text{T}_1^{\text{prep}} \)) では、S₀とのSOCが非常に大きくなり(例:30.47 cm-1)、逆ISCによるS₀への迅速な緩和が可能となる。

              2: NIR光応答と酸素安定性

              • 主要な発見: PATのT1-S₀エネルギーギャップE-配置で0.72 eV)は、分子状酸素のエネルギー(約1 eV)を下回る。
              • 意味と重要性: このエネルギー差により、酸素による三重項消光が最小限に抑えられる
              • 結果として、PATは酸素排除の必要なしに、周囲条件下で効率的な光スイッチングを達成できる。
              • PAT三重項状態の比較的短い寿命(約30 ns)も、酸素増感の効率をさらに抑制するのに役立っている可能性がある。

              3: 先行研究との比較(E-to-Z異性化)

              • E-to-Z異性化がT₁経路を介して進行するという本研究の結果は、構造的に関連するチオインディゴイド系における先行研究と一致する。
              • 以前の研究では、E-to-Z異性化の生成物形成速度はT₁減衰速度と一致し、酸素消光が異性化を抑制することが知られていた。
              • しかし、PATの特筆すべき点は、その優れた空気安定性であり、酸素の影響が顕著でないという点で、当初は三重項メカニズムを強く示唆していなかった。

              4: 先行研究との比較(Z-to-E異性化)

              • Z-to-E光異性化メカニズムは、長年議論の対象であった。先行研究では、三重項中間体が関与することは概ね合意されていたが、一重項と三重項の両経路が寄与する可能性も示唆されていた。
              • 本研究の結合解析は、Z-to-E異性化がT₁を介して行われることを確認するとともに、S₁表面上で非生産的な脱活性化経路が競合するという明確な全体像を提供する。
              • これは、三重項状態が非常に効率的な光異性化を支配する一方で、一重項状態が重要な競合的な脱活性化の役割を果たすという以前の仮説を統合するものである。

              5: 計算上の制約

              • 計算コスト削減のため、モデル分子1a(メシチル基を水素に置換)が主に用いられた。
              • TD-DFT法は、低エネルギー吸収の垂直励起エネルギーを体系的に過小評価する傾向がある。
              • ADC(2)法は励起エネルギーをわずかに過大評価するものの、実験スペクトルにより近い結果を提供する。
              • E/Z異性化中の実際の構造変化(ボウル型からステップ型への変化)は、単一の反応座標では捉えることが難しいほど複雑である。

              結論

              • PAT光スイッチのE-to-Z光異性化は、一重項励起状態では不利であり、生産的なスイッチングは三重項多様体(T₁ を介して排他的に進行する。
              • Z-to-E異性化もT₁中間体によって媒介されるが、同時に非生産的な一重項状態経路が競合することが特定された。
              • PATのユニークな構造的特徴(peri-置換パターンπ-共役拡張)は、その明確で有利な光化学的性能の主要な決定要因である。
              • 分野への貢献と提言: T₁-S₀ギャップが酸素のエネルギーを下回るため、酸素消光が最小限に抑えられ、高効率なNIR光スイッチングが実現する

              将来の展望

              • 非生産的な一重項経路を戦略的に設計・制御するため、例えば、T₁へのISCを強化する重原子置換基(例:Cl, Br, I)を組み込むことが提案される。
              • 本研究は、高性能で予測可能、かつ調整可能な特性を持つNIR活性光スイッチの設計図を確立する。

              用語集

              用語意味・補足説明
              TD-DFT(時間依存密度汎関数理論)励起状態のエネルギーや電子遷移を計算するために用いられる量子化学的手法の一つである。PATのS₁が顕著な電荷移動特性を持つことを予測するために使用された。ただし、低エネルギー吸収の垂直励起エネルギーを系統的に過小評価する傾向がある。
              ADC(2)(二次代数図解構成)量子多体系の励起状態(エネルギー、遷移モーメント、スペクトルなど)を、粒子の生成・消滅演算子の時間発展を記述する関数であるGreen関数(グリーン関数)を用いて解析するアプローチ。TD-DFTと共に使用された量子化学的計算手法。TD-DFTよりも励起エネルギーをわずかに過大評価するが、実験スペクトルにより近い結果を提供する。
              S₀(一重項基底状態)分子が光を吸収する前の安定した基底状態。S₁T₁といった励起状態から緩和が起こり、異性化生成物となる。
              S₁(一重項第一励起状態)光励起によって最初に生成される電子状態であり、PATでは顕著な電荷移動特性を持つ。E-異性体から始まると、S₁ PES上での光異性化はエネルギー的に非常に不利である。Z-異性体から始まると、S₁表面上で基底状態S₀へ戻る非生産的な脱活性化経路が競合する。
              T₁(三重項第一励起状態)S₁からISCを経て到達する励起状態であり、スピンが平行になっている。PATの光異性化はS₁ PES上ではなく、このT₁ PES上で進行することが本研究の主要な発見である。T₁の減衰(約30 ns)が、光生成物の形成、すなわちE-to-Z異性化 およびZ-to-E異性化 の最終段階を決定する。
              T₂(三重項第二励起状態)S₁励起状態の幾何構造において、エネルギー的にS₁とほぼ縮退している状態。S₁からT₁へのISCは、T₂を介して起こる可能性が高いことが計算により示された。
              ISC(項間交差Intersystem Crossing)スピン状態の変化を伴う非放射遷移(例:S₁ $\to$ T₁)。硫黄原子による重原子効果により、PATでは比較的速いISC(153 ps)が観察された。T₁からS₀への逆ISCは、垂直幾何学配置においてSOCが大きくなるため、迅速に起こる。
              GSB(基底状態漂白Ground State Bleach)ポンプ光による励起後、TA分光法において観測される、基底状態 (S₀) の吸収の減少(漂白)シグナル。励起状態のS₁S₀へ非生産的に緩和する場合、GSBの部分的な回復として現れる。
              ESA(励起状態吸収Excited State Absorption)TA分光法において、励起された分子が、S₁T₁といった励起状態からさらに高いエネルギー状態へ光を吸収する現象。S₁からのESAT₁からのESAは、異なる波長範囲に現れるため、励起状態の種を識別するために利用される。
              PES(ポテンシャルエネルギー面Potential Energy Surface)分子の構造変化(ここでは二重結合のねじれ角)に伴うエネルギー的な地形を示す。PATの異性化メカニズムでは、S₁ PESが異性化に対して不利な経路であり、T₁ PESが生産的な経路であることが特定された。
              SOC(スピン軌道相互作用Spin-Orbit Coupling)電子のスピン運動と軌道運動の相互作用の強さを示す。S₁ $\to$ T₂ISCの可能性を示唆し、特にT₁S₀へ戻るための逆ISCを、垂直幾何学配置(ねじれ角90°付近)で促進する重要な役割を果たす。

              TAKE HOME QUIZ

              I. 背景と動機 (Background and Motivation)

              問 1: 従来の光スイッチが一般的に抱えていた課題のうち、特に生物学的な応用を妨げていた、励起光のエネルギーに関する問題点を2つ挙げてください。

              問 2: peri-anthracenethioindigo (PAT) が光スイッチ分野で「画期的」とされる主な理由は何ですか。そのユニークな分光学的特性を説明してください。

              II. 方法論と初期解析 (Methodology and Initial Analysis)

              問 3: 本研究では、PATの異性化経路を解明するために、どのような二部構成の戦略(理論的アプローチと実験的アプローチ)を採用しましたか。また、理論計算において、励起状態のエネルギーを計算するために特に使用された二つの量子化学的手法を挙げてくだい。

              問 4: PATのE-異性体(725 nm)とZ-異性体(550 nm)に見られる幅広い低エネルギー吸収帯は、電子遷移の観点から何に起因すると特定されましたか。また、この励起が中心の二重結合に与える影響は何ですか。

              III. 異性化メカニズム (Isomerization Mechanism)

              問 5: E-to-Z異性化経路の最も重要な発見は何ですか。すなわち、光異性化は一重項ポテンシャルエネルギー面(S₁ PES)上と三重項ポテンシャルエネルギー面(T₁ PES)上のどちらを介して進行することが判明しましたか。

              問 6: E-to-Z異性化のダイナミクスにおいて、過渡吸収分光法で観測された「153 ps」という時間定数は、励起状態の分子に起こるどの重要なプロセスに割り当てられましたか。

              問 7: Z-to-E異性化は、E-to-Z異性化とどのように異なりますか。特に、Z-to-E異性化で特定された、生産的異性化経路と競合する**「非生産的なチャネル」**の性質について説明してください。

              IV. 結論と応用 (Conclusion and Implication)

              問 8: PATは三重項経路を介して異性化を行うにもかかわらず、なぜ酸素の排除なしに(空気中で)効率的な光スイッチングが可能であると結論づけられましたか。その理由をT₁–S₀エネルギーギャップ分子状酸素のエネルギーの観点から説明してください。


              解答と解説

              問 1: 従来の光スイッチは、プロセスを駆動するために高エネルギー光(主にUVまたは青色光)に依存しており、これが生物学的な応用を妨げる大きな課題となっていました。

              1. 望ましくない光破壊的効果、または細胞損傷を引き起こす
              2. 生体組織への不十分な浸透深度をもたらす。

              問 2: peri-anthracenethioindigo (PAT) はπ共役系を拡張したインディゴイド光スイッチであり、オール赤色光および近赤外(NIR)での応答性を示す点で画期的です。

              • ユニークな分光学的特性: E-異性体とZ-異性体の両方が、電磁スペクトルの赤色光から近赤外(NIR)領域で吸収する。これにより、低エネルギー応答性分子光スイッチの開発における画期的な進展となりました。

              問 3: 本研究では、以下の静的アプローチ動的アプローチからなる二部構成の戦略を採用しました。

              1. 静的アプローチ(理論): 量子化学計算に基づいて、提案された異性化座標に沿ったポテンシャルエネルギー面(PES)を明らかにし、機構的な洞察を提供する。
              2. 動的アプローチ(実験): フェムト秒およびナノ秒過渡吸収分光法を用いて励起状態の挙動を調査し、理論的知見に基づく実験データの解釈を行う。

              励起状態のエネルギー計算に使用された二つの量子化学的手法は、時間依存密度汎関数理論(TD-DFT)二次代数図解構成(ADC(2)) です。

              問 4: PATの低エネルギー吸収帯(1b-Zは550 nm、1b-Eは725 nmに極大)は、電荷移動(Charge-Transfer, CT)遷移に起因すると特定されました。

              • 影響: この電荷移動励起において、電子密度は硫黄原子、アントラセン、および中心の二重結合から、主にチオインディゴとカルボニル断片へと移動します。これにより、中心の異性化可能な二重結合が破壊されることになります。

              問 5: 最も重要な発見は、一重項ポテンシャルエネルギー面(S₁ PES) 上での光異性化がエネルギー的に非常に不利である、またはエネルギー的に到達不可能である ということです。その代わりに、生産的な光スイッチングは三重項第一励起状態(T₁ PES) 上を介して排他的に進行することが判明しました。

              問 6: 153 psという時間定数は、S₁(一重項第一励起状態)からT₁(三重項第一励起状態)への項間交差(ISC) に割り当てられました。この比較的速いISCは、分子内の硫黄原子によって導入された重原子効果に起因するとされています。

              問 7: Z-to-E異性化は、E-to-Z異性化と同様にT₁中間体によって媒介されるという点では共通しています。しかし、Z-to-E異性化には追加の超高速脱活性化チャネルが競合します。

              • 非生産的なチャネルの性質: S₁表面上で、S₁コンフォーマー(平面型の \( \text{S}_1^{\text{min, 1}} \))が、生産的なT₁経路へ進む前にS₀(基底状態)へ非放射的に減衰する経路です。この非生産的なS₁ $\to$ S₀緩和は16 psの時間定数で観測され、GSBの部分的な回復を伴います。この競合チャネルは、一重項状態が重要な脱活性化の役割を果たすことを示しています。

              問 8: PATのT₁–S₀エネルギーギャップ分子状酸素のエネルギーを下回っているためです。

              • E-配置におけるT₁–S₀ギャップ0.72 eVであり、これは分子状酸素のエネルギー約1 eVを下回ります
              • これにより、酸素による三重項状態のクエンチング(消光)が最小限に抑えられ、酸素を排除する必要なく、周囲条件下で効率的な光スイッチングが可能となります。
              • また、PATの三重項状態が比較的短寿命(約30 ns)であることも、酸素増感の効率をさらに最小限に抑えるのに役立っている可能性があります。