Dr. Indrajit Ghoshのグループが光触媒に興味のあるポスドク募集中

2025年11月1日土曜日

Catch Key Points of a Paper ~0255~

論文のタイトル: One-Pot Synthesis of α-Substituted Acrylatesα-置換アクリル酸エステルのワンポット合成法

著者: Magdalini Matziari*, Yixin Xie

雑誌名: SynOpen  
巻: Volume 02, pp. 0161-0167
出版年: 2018
DOI: https://doi.org/10.1055/s-0037-1610357


背景

1: 研究の背景と重要性

  • α-置換アクリル酸エステルは、有機合成において炭素-炭素結合や炭素-ヘテロ原子結合を形成するための重要な中間体です。
  • これらの化合物は、材料科学、バイオテクノロジー、ナノテクノロジーなど、化学の多くの分野で広く利用されています。
  • 特に、β-アミノ酸やホスフィン酸ペプチド類似体、天然物などの生物活性化合物の合成において、鍵となる中間体として機能します。
  • 合成反応の連続において、効率性と経済性は新しい合成方法を開発する上で非常に重要です。

2: 研究のギャップと目的

  • 既存のアクリル酸エステル合成法は、多くが多段階のプロセスを必要とし、全体的な収率が低い(10〜45%)という問題がありました。
  • 特に、アミノ酸のアクリル酸エステル類似体に関しては、一般的な合成方法が存在しませんでした。
  • 実際、多くのアミノ酸(Arg、Asn、Cys、Glnなど)のアクリル酸エステル類似体はこれまで合成されていませんでした
  • これらの課題に対し、本研究はワンポット反応による、より効率的で汎用性の高い合成法の開発を目指しました。

3: 研究の具体的な目的

  • Horner–Wadsworth–Emmons (HWE) 反応を用いて、α-置換アクリル酸エステルを合成する新しいワンポット手法を確立すること。
  • 天然アミノ酸のすべての側鎖を含む多様な置換基を、アクリル酸エステル骨格に効率的に導入すること。
  • 穏和な条件、安価な試薬、短い反応時間、そして簡単な後処理と精製ステップにより、高収率で汎用的な代替合成法を提供すること。
  • これまで合成が報告されていなかったアミノ酸アクリル酸エステル類似体を合成し、その有用性を実証すること。

方法

1: 研究デザイン

  • 本研究は、α-置換アクリル酸エステルのための新しいワンポット二段階合成法を開発・最適化する実験研究です。
  • 第一段階としてホスホノ酢酸エステルのアルキル化反応、第二段階としてHWE反応によるメチレン化反応を連続して行います。
  • まず、それぞれの反応ステップ(アルキル化とメチレン化)の最適条件(塩基、溶媒など)を個別に検討しました。
  • 次に、最適化された条件を組み合わせてワンポット反応を行い、その有効性を検証しました。

2: 使用した主要な試薬と出発物質

  • 出発物質: トリエチルホスホノ酢酸エステルおよびt-ブチルジエチルホスホノ酢酸エステル。
  • アルキル化剤: 対応するアミノ酸側鎖を持つ様々な市販のアルキル化剤(例:臭化ベンジル)を使用しました。
  • 塩基:
    • アルキル化段階: カリウム t-ブトキシド (t-BuOK)
    • メチレン化段階: 炭酸カリウム (K2CO3)
  • メチレン化剤: 37 wt.% ホルムアルデヒド水溶液

3: 主要な評価項目と測定方法

  • 評価項目: 目的とするα-置換アクリル酸エステルの単離収率
  • 反応追跡: 薄層クロマトグラフィー(TLC)を用いて反応の進行を確認しました。
  • 精製: 生成物はシリカゲルカラムクロマトグラフィーを用いて精製しました。
  • 構造決定:
    • ¹H NMRおよび¹³C NMRスペクトルを測定し、化合物の構造を同定しました。
    • 高分解能質量分析(HRMS)により、精密な分子量を確認しました。

結果

1: 反応条件の最適化

  • アルキル化反応の最適化では、様々な塩基と溶媒の組み合わせを検討しました。
    • t-BuOKを塩基、DMFを溶媒として用いた場合に最も高い収率(86%)が得られました。
  • ワンポット反応の最適化では、メチレン化段階の塩基とホルムアルデヒド源を検討しました。
    • 第一段階でt-BuOK、第二段階でK2CO3を使用し、ホルムアルデヒド水溶液を用いた場合に、最も高い収率(73%)を達成しました。
  • このワンポット法は、各ステップを個別に行い中間体を単離する方法と比較して、全体収率を低下させることなく実施可能であることが確認されました。

2: 様々なアクリル酸エステルの合成

  • 最適化されたワンポット条件下で、様々なアルキル化剤を用いて、対応するα-置換アクリル酸エステルを合成しました。
  • 天然アミノ酸の側鎖を持つアクリル酸エステル(例: Phe, Val, Tyr, Trp)が良好から優れた収率で得られました。
  • t-ブチルジエチルホスホノ酢酸エステルを出発物質として用いることで、t-ブチルエステル保護されたアクリル酸エステルもスムーズに合成できました。

3: 合成結果の概要(収率)

  • 本手法により、21種類のα-置換アクリル酸エステルを合成し、その多くは60%以上の高い収率で得られました。
  • いくつかの合成例と収率を以下の表に示します。
対応するアミノ酸収率(エチルエステル)収率(t-ブチルエステル)
Phe (フェニルアラニン)73%78%
Tyr (チロシン)84%89%
Val (バリン)76%データなし
Trp (トリプトファン)78%データなし
Nle (ノルロイシン)84%78%
phenylpropyl89%84%

考察

1: 汎用性の高いワンポット合成法の確立

  • 本研究で開発された手法は、ホスホノ酢酸エステルのアルキル化とそれに続くHWEメチレン化を組み合わせた、効率的なワンポット合成法です。
  • この方法は、時間と試薬を節約し、中間体の精製ステップを回避できるため、合成プロセス全体の効率を大幅に向上させます。
  • 様々な官能基に対する高い許容性を持ち、天然アミノ酸を含む多様な側鎖を導入できるため、非常に汎用性が高いと言えます。

2: 未合成アクリル酸エステルへのアクセス

  • 本手法により、Asp、Glu、Ile、Leu、Nle、Orn、Phe、Trp、Tyr、Valなど、多くのアミノ酸のアクリル酸エステル類似体が良好な収率で得られました。
  • これらのうちいくつかは、本研究で初めて合成が報告されたものです。
  • これにより、これまでアクセスが困難であった生物学的に関連性の高い化合物の合成への道が開かれました。

3: 従来法の課題

  • アクリル酸エステルの合成に関する従来法は、図に示すように複数存在します。
  • 例えば、マンニッヒ反応触媒的カップリング反応ベイリス・ヒルマン反応などが知られています。
  • しかし、これらの方法は多段階の操作を必要とし、多くの場合、全体収率が低い(10〜45%)という欠点がありました。
  • 特にアミノ酸アクリル酸エステル類似体の合成においては、一般的な方法論が確立されていませんでした。 --Image of: --アクリル酸エステル合成の一般的手法

4: 本研究の優位性

  • 本研究で採用したHWE反応は、共役アルケン形成のための強力なツールであり、ワンポット化に適しているという利点があります。
  • 先行研究では、ホスホノ酢酸エステルのアルキル化条件はほとんど調査されていませんでしたが、本研究ではその条件を徹底的に最適化しました。
  • その結果、従来法よりもはるかに高い収率で、かつ**一段階の操作(ワンポット)**で目的物を合成することに成功しました。
  • これにより、これまで面倒で低収率であったプロセスに対する、効果的かつ一般的な代替手段が提供されました。

5: 研究の限界点

  • Lys (リシン) 類似体: NMRでの生成は確認されたものの、Boc体、Cbz体のいずれも単離には至りませんでした
  • Arg (アルギニン) 類似体: Orn (オルニチン) 類似体からの合成を試みましたが、共役系の存在により失敗しました。
  • Cys (システイン) と Met (メチオニン): 対応するアルキル化剤が入手困難であったため、この方法では合成できませんでした。
  • Asn (アスパラギン) と Gln (グルタミン): 末端アミドが原因で複雑な副生成物混合物を与えました。
  • His (ヒスチジン) と Thr (スレオニン): Hisはマンニッヒ反応、Thrはベイリス・ヒルマン反応で容易に合成できるため、本手法での合成は試みられませんでした。

結論

主な知見:
  • ホスホノ酢酸エステルのアルキル化とHWEメチレン化を組み合わせることで、α-置換アクリル酸エステルを高収率で合成する新規ワンポット法を開発しました。
分野への貢献:
  • この手法は、これまで合成されていなかったものを含む、ほとんどの天然アミノ酸のアクリル酸エステル類似体へのアクセスを可能にしました。
  • 穏和な条件、安価な試薬、短い反応時間、簡単な操作により、実用的で汎用性の高い合成ツールを提供しました。

将来の展望

  • 本手法は、生物活性化合物の合成における重要な中間体の供給を容易にするため、創薬化学や材料科学などの分野での応用が期待されます。
  • 本研究で合成できなかったアクリル酸エステル類似体については、別の合成戦略の検討が今後の課題となります。

用語集

  • ワンポット合成 (One-pot synthesis): 一つの反応容器内で、中間体を単離・精製することなく、連続して複数の化学反応を行う合成手法。時間、労力、試薬を節約できる利点があります。
  • Horner–Wadsworth–Emmons (HWE) 反応: ホスホナートカルボアニオンとアルデヒドまたはケトンを反応させて、アルケン(特にα,β-不飽和カルボニル化合物)を合成する化学反応。官能基許容性が広く、多くの合成で利用されます。
  • アクリル酸エステル (Acrylates): アクリル酸とアルコールから形成されるエステル。重合しやすく、高分子材料の原料として広く使われるほか、有機合成における重要なビルディングブロックです。
  • メチレン化 (Methylenation): 分子内にメチレン基 (=CH₂)を導入する反応。本研究では、HWE反応を利用してアルデヒド(ホルムアルデヒド)からメチレン基を導入しています。

TAKE HOME QUIZ

問1. 本研究で中心的に利用されている化学反応は何ですか? 

a) Mannich 反応

b) Baylis–Hillman反応 

c) Horner–Wadsworth–Emmons反応 

d) 還元的カップリング反応 

問2. 反応の第一段階であるアルキル化反応において、最も収率が良かった塩基と溶媒の組み合わせはどれですか? 

a) NaH / THF 

b) LDA / THF 

c) t-BuOK / DMF 

d) K2CO3 / CH3CN

問3. ワンポット反応全体で最適とされた条件の組み合わせはどれですか? 

a) 第一段階: NaH、第二段階: K2CO3、パラホルムアルデヒド 

b) 第一段階: t-BuOK、第二段階: K2CO3、ホルムアルデヒド水溶液 

c) 第一段階: t-BuOK、第二段階: Cs2CO3、パラホルムアルデヒド 

d) 第一段階: t-BuOK、第二段階: K2CO3、パラホルムアルデヒド

問4. 著者らがワンポット合成法を開発しようと考えた理由(従来法の問題点)を2つ挙げてください。

問5. この合成法が「汎用性が高い」と言えるのはなぜですか?論文の内容に基づいて説明してください。

問6. この研究手法では合成できなかった、あるいは単離できなかったアミノ酸類似体の例を2つ挙げてください。



解答と解説

問1. 解答: c) 解説: 論文のタイトルや本文中で、この合成法がホーナー・ワズワース・エモンズ (HWE) 反応を利用していることが繰り返し述べられています。

問2. 解答: c) 解説: Table 1 によると、t-BuOKを塩基、DMFを溶媒として用いた場合に最高の収率86%を達成しています。

問3. 解答: b) 解説: Table 2 の最適化検討の結果、第一段階の塩基としてt-BuOK、第二段階の塩基としてK2CO3、そしてホルムアルデヒド源としてホルムアルデヒド水溶液を用いた場合に最も高い全体収率73%が得られました。

問4. 解答例:

  1. 従来のアクリル酸エステル合成法は多段階のプロセスを必要とし、時間と試薬を浪費するため。
  2. 従来法の多くは全体的な収率が低い(10〜45%)ため。 (その他、「アミノ酸のアクリル酸エステル類似体に対する一般的な合成法がなかった」、「多くのアミノ酸類似体が未合成だった」 なども正解です)

問5. 解答例: 天然アミノ酸の側鎖や生物学的に関連のある置換基など、多様な側鎖をスムーズに導入できるためです。実際に、論文では21種類の異なるα-置換アクリル酸エステルを良好な収率で合成しており、その適応範囲の広さを示しています。

問6. 解答例: Lys (リシン)、Arg (アルギニン)、Cys (システイン)、Met (メチオニン)、Asn (アスパラギン)、Gln (グルタミン)、His (ヒスチジン) の中から2つ。 (解説: Lysは単離できず、Argは合成に失敗、CysとMetは試薬が入手不可、AsnとGlnは複雑な混合物を生成、Hisはこの方法では合成不可能でした。)

2025年10月28日火曜日

対称性と電子遷移~その1~水分子を例に「群」を理解する試み

まず、化学における「群」とはなにか。(対称操作の集まり\(^o^)/)


1: 群とは何か?

対称操作の集まり

水分子の対称操作を例に考えると、水分子は折れ線型(V字型)で、以下のような「対称操作」が可能です。

  • E(恒等操作)

何もしない

  • C₂(回転)

分子を180°回転

  • σv(鏡映)

垂直面で反射

  • σv'(別の鏡映)

もう一つの垂直面で反射

これらの操作は「水分子を変えない操作の集まり」であり、を形成します。

「集合」と「演算」の意味から

  • 集合:対象の集まり。例:整数の集合 {…, –2, –1, 0, 1, 2, …}
  • 演算:その集合の要素同士を組み合わせるルール。例:加法(+)

群とは、「集合」と「演算」がセットになって、以下の4つの性質を満たすときに成立します。

  1. 閉包性:演算の結果もその集合に属する
  2. 結合性:演算の順序が変わっても結果は同じ
  3. 単位元の存在:演算しても元の要素が変わらない要素が存在
  4. 逆元の存在:演算して単位元になるような要素が存在
正直言って、この4つの性質、どれをとってもナンノコッチャなんですよね。なので、以下に「水分子の対称操作」と「整数の加法」という2つの例を並列で示すことで、群の4つの性質を1つずつ徹底的に解説します。


2: 閉包性(Closure)

意味:演算の結果が、必ず元の集合の中にあること。

整数の加法の例:

  • 集合:整数(…, –2, –1, 0, 1, 2, …)
  • 演算:加法(+)
  • 検証:1 + 2 = 3 → 3は整数 → OK
    –5 + 7 = 2 → 2も整数 → OK

すなわち、どんな2つの整数を足しても、結果はまた整数になる。だから閉包性あり。

水分子の対称操作の例:

  • 操作:C₂(180°回転)とσv(鏡映)を組み合わせると、σv'になる(\( C_2 \times \sigma_v = \sigma_v' \))
  • σv'も水分子の対称操作の1つ → 閉包性あり

3: 結合性(Associativity)

意味:演算の順序を変えても、結果が変わらないこと。

整数の加法の例:

  • (1 + 2) + 3 = 3 + 3 = 6
  • 1 + (2 + 3) = 1 + 5 = 6
    → 両方とも結果は6 → 結合性あり

水分子の対称操作の例:

  • \( (C_2 \times \sigma_v) \times \sigma_v' = C_2 \times (\sigma_v \times \sigma_v') \) → 結果は同じ操作になる
  • \( E \times (C_2 \times \sigma_v) = (E \times C_2) \times \sigma_v \) → 結果は同じ操作になるので、結合性あり(実際の行列演算でも確認できる)

4: 単位元の存在(Identity Element)

意味:演算しても何も変わらない要素が存在すること。

整数の加法の例:

  • 単位元:0
  • 5 + 0 = 5、–3 + 0 = –3 → 何も変わらない → OK

水分子の対称操作の例:

  • 単位元:E(恒等操作)
  • \( E \times C_2 = C_2, \quad E \times \sigma_v = \sigma_v \) → 何も変わらない → OK

5: 逆元の存在(Inverse Element)

意味:演算して単位元に戻るような要素が存在すること。

    整数の加法の例:

    • 逆元:–x(xの逆)
    • 5 + (–5) = 0 → 単位元(0)に戻る → OK

    水分子の対称操作の例:

    • \( C_2 \times C_2 = E \) → C₂は自分自身が逆元(180°回転を2回すると元に戻る)
    • \( \sigma_v \times \sigma_v = E \) → 鏡映も自分自身が逆元 → OK

    まとめ:群の4つの性質

    性質 意味 例(整数) 例(水分子)
    閉包性
    演算しても
    集合の中にいる
    1 + 2 = 3 \( C_2 \times \sigma_v = \sigma_v' \)
    結合性
    演算の順序を
    変えても同じ
    (1 + 2) + 3
    = 1 + (2 + 3)
    \( (C_2 \times \sigma_v) \times \sigma_v'\)
    \( = C_2 \times (\sigma_v \times \sigma_v') \)
    単位元 何も変えない要素がある x + 0 = x \( E \times C_2 = C_2 \)
    逆元 元に戻す要素がある x + (–x) = 0 \( C_2 \times C_2 = E \)


    2025年10月25日土曜日

    Catch Key Points of a Paper ~0254~

    論文のタイトル: Photocontrolled Cobalt Catalysis for Selective Hydroboration of α,β-Unsaturated Ketonesα,β-不飽和ケトンの選択的ヒドロホウ素化のための光制御コバルト触媒

    著者: Frédéric Beltran, Enrico Bergamaschi, Ignacio Funes-Ardoiz, and Christopher J. Teskey*

    雑誌名: Angewandte Chemie International Edition 
    巻: Volume 59, Issue 47, pp. 21176-21182
    出版年: 2020
    DOI: https://doi.org/10.1002/anie.202009893


    背景

    1:研究の背景と重要性

    • α,β-不飽和カルボニル化合物の選択的還元: 合成化学において広く重要視される化学変換です。
    • 選択性の決定要因: 求核剤/還元剤と反応物の「硬さ」と「軟らかさ」(HSAB則)の概念によって、1,2-付加か1,4-付加かが決まります。
    • 触媒的ヒドロホウ素化: 従来の還元剤と比較して、官能基許容性が高く、選択性に優れた穏やかな還元法とされています。
    • 既存手法の課題: これまでのα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化は、ほとんどが1,2-選択的でした。

    2:未解決の問題点と研究のギャップ

    • 環状基質への非適用性: 既存の1,4-選択的ヒドロホウ素化法は、直線状の基質に限定され、反応に必要なs-cis配座をとれない環状α,β-不飽和ケトンには適用できませんでした。
    • 環状エノールボレートへのアクセス困難: この制限により、環状エノールボレートの選択的な形成が困難でした。環状エノールボレートは、アルドール反応において他のエノラートとは異なる立体選択性を示すため、合成化学的に価値があります。
    • 化学量論的添加物の必要性: 従来の選択性制御は、硬さや軟らかさを調整するために化学量論的な量の添加物を必要とすることが多く、廃棄物を生じさせる課題がありました。
    • 本研究の目的: 可視光という非侵襲的な外部刺激を用いることで、従来の硬さ・軟らかさの概念とは対照的に、根本的な選択性の反転を可能にする新しい手法を開発することです

    3:研究の具体的な目的と期待される成果

    • 光による反応経路の制御: 光の有無のみで制御される2つの異なるメカニズムを利用し、α,β-不飽和カルボニル化合物のヒドロホウ素化において対照的な生成物を得ることを目指しました。
    • 単一触媒プラットフォームの構築: これまで未解決であった環状不飽和ケトンを含む、直線状および環状の基質に対して、1,2-および1,4-ヒドロホウ素化の両方を実行できる単一の触媒システムを構築することを目的としました。
    • 環状エノールボレートへの直接的アクセス: 光照射下での1,4-選択的ヒドロホウ素化により、これまで困難であった環状エノールボレートを直接合成する経路を確立します
    • ワンポットでのアルドール反応への応用: 合成した環状エノールボレートを利用し、ワンポットで立体選択的なsyn-アルドール生成物への簡便な合成ルートを提供することが期待されます。

    方法

    1:研究デザイン

    • 触媒反応の設計: 安価で安定なコバルト錯体 CoH[PPh(OEt)2]4 を触媒として使用しました。この錯体は、可視光照射により配位子を解離させ、配位不飽和な活性種を生成することが知られています。
    • 反応条件の比較: 光照射下(青色LED)と暗所の2つの条件下で反応を行い、生成物の位置選択性を比較しました。
    • 基質範囲の検討: 直線状および環状の様々なα,β-不飽和ケトンを用いて、本手法の一般性を評価しました。
    • メカニズム解明: 実験的検討(制御実験)と密度汎関数理論(DFT)計算を組み合わせることで、光の有無による反応メカニズムの違いを解析しました。

    2:使用した主要な試薬と装置

    • 触媒: CoH[PPh(OEt)2]4
    • ヒドロホウ素化剤: ピナコールボラン (HBPin)
    • 基質: 種々のα,β-不飽和ケトン(例:カルコン、4,4-ジメチルシクロヘキサ-2-エン-1-オンなど)
    • 光源: 青色光
    • 反応溶媒: ベンゼン、THFなど

    3:主要な評価項目と測定方法

    • 位置選択性: 生成物である飽和ケトン(1,4-還元生成物)とアリルアルコール(1,2-還元生成物)の比率を評価しました。
    • 収率: 反応後の生成物の単離収率を測定しました。
    • 立体選択性: ワンポットアルドール反応において、syn体とanti体のジアステレオマー比(d.r.)を評価しました。
    • 反応追跡: ¹H, ¹¹B, ³¹P NMRを用いて、反応の進行や中間体の生成を追跡しました。

    4:使用した計算手法

    • 計算手法: 密度汎関数理論(DFT)計算
    • 計算レベル: CPCM(benzene)/B3LYP-D3/Def2TZVPP//B3LYP-D3/6-31G(d)/LANL2DZレベルで計算を実施しました。
    • 目的: 暗所(18電子コバルト錯体)と光照射下(16電子コバルト錯体)での反応メカニズムの違いを理論的に解明し、観測された選択性を説明することです。
    • 解析対象: 遷移状態(TS)のエネルギー障壁や中間体の安定性を計算し、反応経路を比較しました。

    結果

    1:光による位置選択性のスイッチング

    • 直線状基質(カルコン)での選択性制御:

      • 暗所: 1,4-還元生成物(飽和ケトン)が選択的に得られました。
      • 光照射下: 選択性が完全に反転し、1,2-還元生成物(アリルアルコール)が得られました。
    • 環状基質での選択性制御:

      • 暗所: 従来法と同様に、1,2-還元生成物が得られました。
      • 光照射下: これまで困難であった1,4-還元生成物(飽和ケトン)を選択的に得ることに成功しました

    2:ワンポットでのsyn選択的アルドール反応

    • 環状エノールボレートの活用: 光照射下で生成した環状ボロンエノラートを単離せず、そのまま求電子剤(アルデヒド)と反応させました。

    • 高いsyn選択性: ほとんどの環状エノン基質において、極めて高い選択性でsyn-アルドール生成物が得られました。これは、銅ヒドリド触媒を用いた従来法がanti選択的であるのと対照的です。

    • 幅広い適用範囲: 5員環から7員環までの様々な環状基質や、芳香族、複素環、脂肪族アルデヒドに適用可能でした。

    3:メカニズム解明のための実験とDFT計算

    • 制御実験:

      • 熱反応では光反応ほどの収率・選択性は得られませんでした。
      • 1,2-還元生成物を光照射しても1,4-還元生成物にはならず、逐次的な異性化・ヒドロホウ素化の経路は否定されました。
      • 暗所ではピナコールボラン非存在下で反応が進行しない一方、光照射下では触媒量で反応が進行することが示唆されました。
    • DFT計算による反応経路の比較:

      • 光照射下(不飽和16電子錯体): 基質がコバルト中心に直接配位し、C=C結合へのヒドリド挿入が有利でした(エネルギー障壁 10.7 kcal/mol)。
      • 暗所(飽和18電子錯体): 基質が配位できず、Co⁰錯体とラジカル中間体を経る全く異なる経路(SET機構)で反応が進行することが示唆されました(エネルギー障壁 24.9 kcal/mol)。

    考察

    1:光による触媒配位圏の制御と選択性スイッチ

    • 発見: 可視光の照射の有無によって、コバルト触媒の配位圏を制御し、ヒドロホウ素化反応の位置選択性を1,2-付加と1,4-付加の間で自在に切り替えることに成功しました
    • 意味: これは、反応物の硬さや軟らかさを化学量論的な添加物で調整する従来のアプローチとは一線を画す、概念的に新しい選択性制御法です。
    • 重要性: 光という外部刺激を用いることで、廃棄物を出すことなく、単一の触媒システムで多様な生成物を合成する道を拓きました。金属錯体の配位圏制御における光の未開拓な可能性を示しています。

    2:二つの異なる反応メカニズムの解明

    • 発見: DFT計算と実験により、光照射下と暗所では全く異なるメカニズムが作動していることが明らかになりました。
      • 光照射下: 16電子の不飽和錯体が基質と直接相互作用し、ヒドリド移動を経て反応が進行します。
      • 暗所: 18電子の飽和錯体は、Co⁰錯体を生成後、一電子移動(SET)を伴うラジカル的な経路で反応を触媒します。
    • 重要性: このメカニズムの解明は、観測された選択性の違いを合理的に説明するものです。特に、暗所でのCo¹-H錯体が不活性であるという従来の定説に対し、新たな反応経路の存在を示唆しました。

    3:1,4-選択性について

    • 支持する先行研究:
      • 銅ヒドリド触媒を用いた先駆的な研究では、1,4-選択的還元が可能でしたが、空気中で不安定な試薬が必要でした。本研究は、より取り扱いやすい試薬で同様の変換を達成しています。
    • 対立または補完する先行研究:
      • Evansらによるカテコールボランを用いたロジウム触媒反応は1,4-選択的ですが、直線状基質に限定されていました。本研究は、環状基質という長年の課題を解決しました
      • 環状基質のアルドール反応では、銅、スズ、チタンエノラートを用いる従来法は主にanti生成物を与えましたが、本手法は対照的にsyn生成物を高選択的に与えます

    4:光触媒反応とメカニズムについて

    • 支持する先行研究:
      • 遷移金属触媒において、配位子の光脱離を利用して反応のON/OFFを切り替える例は報告されていました。本研究は、この原理を反応のON/OFFではなく、選択性のスイッチングに応用した点で新しいです。
      • Onishiらの研究で、CoH[PPh(OEt)2]4が可視光で配位子を解離させることは確立されていました。本研究は、この知見を基に、解離後の活性種が異なる反応性を示す可能性に着目しました。
    • 本研究の独自性:
      • 光を用いて反応性を制御する研究は注目されていますが、多くは酸化還元サイクルを含む光レドックス触媒です。本研究は、触媒の配位状態を光で変化させることで、非レドックス的な反応の経路を制御した点が独創的です。

    5:研究の限界点

    • α,β-不飽和アルデヒドへの適用限界:
      • 基質としてα,β-不飽和アルデヒド(1p)を用いた場合、暗所では1,2-還元生成物のみが得られ、光照射下でもこれが主生成物となり、選択性の制御は達成できませんでした。
    • 一部基質での選択性の低下:
      • 特定の直線状基質(1h, 1i)では、暗所条件で生成物の混合物を与えました。
      • 電子不足のアルデヒド(4k, 4l)を用いたアルドール反応では、syn選択性が低下する傾向が見られました。
    • 計算モデルの単純化:
      • DFT計算において、計算コスト削減のため、ホスホニット配位子のエチル基をメチル基に単純化してモデル化しています。これにより、実験結果と予測された選択性の比率に若干の差異が生じた可能性があります。

    結論

    • 安価なコバルト触媒を用い、光の有無だけでα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化の位置選択性を自在に制御する新しい触媒システムを開発しました。
    • これまで困難であった環状ケトンの1,4-選択的ヒドロホウ素化を達成し、ワンポットで高syn選択的なアルドール反応へと展開しました。
    • 実験とDFT計算から、光照射下と暗所では、それぞれ配位飽和度の異なる触媒が全く異なるメカニズムで反応を駆動していることを明らかにしました。
    • 本研究は、外部刺激(光)を用いて触媒の配位圏を動的に制御することで、反応の選択性を根本から変えるという新しい戦略を提示しました。
    • これにより、合成化学における反応制御の新たな可能性を示し、特に価値の高い環状エノールボレートの簡便な合成法を提供しました。

    将来の展望

    • この「光による配位圏制御」の概念を、他の触媒反応や不斉合成へと応用することが期待されます。
    • より複雑な天然物合成など、実践的な応用への展開が今後の課題です。

    用語集

    • ヒドロホウ素化 (Hydroboration): 化合物に水素(H)とホウ素(B)を同時に付加させる化学反応。
    • α,β-不飽和ケトン (α,β-Unsaturated Ketone): カルボニル基(C=O)に隣接して炭素-炭素二重結合(C=C)を持つ化合物。
    • 1,2-付加 vs 1,4-付加 (1,2- vs 1,4-Addition): α,β-不飽和カルボニル化合物への求核攻撃の位置。1,2-付加はカルボニル炭素へ、1,4-付加はβ位の炭素への攻撃を指す。
    • エノールボレート (Enolborate): ホウ素が酸素原子に結合したエノラート。アルドール反応などの中間体として重要。
    • ワンポット反応 (One-pot reaction): 反応容器内で複数の反応ステップを、中間体を単離することなく連続して行う合成手法。
    • DFT計算 (Density Functional Theory calculations): 電子密度を用いて分子の電子状態やエネルギーを計算する量子化学計算手法の一つ。反応メカニズムの解明に強力なツールとなる。
    • 配位圏 (Coordination sphere): 中心金属イオンとそれに直接結合している配位子からなる領域。

    TAKE HOME QUIZ

    問1: この研究が解決しようとした、従来のα,β-不飽和ケトンのヒドロホウ素化における主な課題は何ですか?最も適切なものを一つ選んでください。 

    a) 反応速度が遅いこと 

    b) 高価な貴金属触媒が必要なこと 

    c) 環状基質に対して1,4-選択的な反応が困難であったこと 

    d) 反応に高温条件が必要なこと

    問2: この研究で用いられたコバルト錯体 CoH[PPh(OEt)2]4 は、可視光を照射されるとどのように変化しますか? 

    a) 触媒活性を失う 

    b) 配位子(ホスホナイト)を一つ解離させ、配位不飽和な16電子錯体になる 

    c) 酸化状態がCo(I)からCo(II)に変化する 

    d) 基質と不可逆的に結合する

    問3: 環状ケトン基質(例:1k)を用いたヒドロホウ素化において、光の有無は生成物にどのような影響を与えましたか? 

    a) 光の有無に関わらず、常に1,2-還元生成物が得られた 

    b) 光を照射すると反応が進行しなくなり、暗所でのみ1,4-還元生成物が得られた 

    c) 暗所では1,2-還元生成物が、光照射下では1,4-還元生成物が選択的に得られた 

    d) 暗所では1,4-還元生成物が、光照射下では1,2-還元生成物が選択的に得られた

    問4: 光照射下で生成した環状ボロンエノラートをアルデヒドと反応させるワンポット・アルドール反応では、主にどちらの立体異性体(ジアステレオマー)が生成しましたか? 

    a) anti(アンチ)体 

    b) syn(シン)体 

    c) ラセミ体(syn体とanti体の1:1混合物) 

    d) どちらも生成しなかった

    問5: DFT計算によって示唆された、暗所条件での反応メカニズムの特徴として正しいものはどれですか? 

    a) 触媒が基質と直接配位し、ヒドリド移動が起こる 

    b) 光照射下よりも活性化エネルギーが低い 

    c) Co⁰錯体とラジカル中間体を経る、一電子移動(SET)を伴う経路で進行する 

    d) ピナコールボラン(HBPin)が無くても反応が進行する

    解答

    1. c) 
    2. b) 
    3. c) 
    4. b) 
    5. c) 

    2025年10月4日土曜日

    Catch Key Points of a Paper ~0253~

    論文のタイトル: A Dendralenic C–H Acid(デンドラレン型C–H酸の開発)

    著者: Denis Höfler, Richard Goddard, Nils Nöthling, Benjamin List*

    雑誌名: SYNLETT 
    巻: Volume 14, Issue 04, pages 433-436
    出版年: 2019
    DOI: https://doi.org/10.1055/s-0037-1612246


    背景

    1: 強力なC–H酸への探求

    • C–H酸のユニークな利点: 従来のN–H酸やO–H酸に比べ、炭素は原子価が高いため、より多くの電子求引基 (EWG) を導入できる可能性がある。
    • 酸性度と電子求引基: 酸性度は、分子に含まれる電子求引基の数に直接相関することが示唆されている。
    • 既知の強力なC–H酸:
      • トリス(トリフリル)メタン (1) は非常に強力で、BrønstedおよびLewis酸触媒として高い活性を示す。
      • 1,1,3,3-テトラトリフリルプロペン (TTP) は、優れた酸性度と触媒活性を持つアリル型C–H酸である。
    • さらなる酸性度向上の必要性: これらの強力な酸を超え、さらに多くのEWGを導入できる新しい骨格が求められている。

    2: 研究の動機と課題

    • 既存C–H酸の構造的限界: 現在知られている最強のC–H酸でも、導入できるEWGの数には限界がある。
    • 高共役系への着目: トリエン誘導体やデンドラレン骨格は、より多くのEWGを効率的に配置し、酸性度を最大化する可能性を秘めている。
    • 研究のギャップ: これらの高共役骨格を持つC–H酸の合成と特性評価は、まだ十分に研究されていない。
    • 本研究の目的: トリエン誘導体の一つであるデンドラレン骨格に着目し、これまでで最も強力なC–H酸の一つとなりうる新規化合物の設計と合成を行うこと。

    3: 研究の具体的な目的

    • HTBTの設計と合成:
      • トリス(ビス(トリフリル)ビニル)メタン (HTBT) という新規なデンドラレン型C–H酸を設計。
      • そのアニオン (TBT) は、負電荷が6つのトリフリル基にわたって高度に非局在化し、超強力な酸性度を発揮すると予想される。
    • 構造解析による検証: 合成したHTBTおよびその塩の単結晶X線構造解析を行い、提案された構造が正しいことを確認する。
    • Brønsted酸触媒能の評価: 合成したHTBTが、実際の有機反応において強力なBrønsted酸触媒として機能するかを評価する。
    • アニオンの配位性評価: 生成したTBTアニオンが、弱い配位性アニオン (WCA) として機能するかどうかを、既知のWCAと比較して検証する。

    方法

    1: 研究デザインと全体のアプローチ

    • 研究デザイン: 新規デンドラレン型C–H酸HTBTの多段階合成、構造解析、および触媒機能の評価を組み合わせた実験研究。
    • 合成戦略: トリホルミルメタンとビス(トリフリル)メタンのKnoevenagel型縮合反応を鍵反応とする経路を採用した。
    • 主要な合成ステップ:
      • HTBTのTMP塩 (HTMP·TBT) の合成。
      • HTMP·TBTから遊離酸HTBTへの変換。
      • HTBTのBrønsted酸触媒能の評価とエーテラート塩への変換。
    • 特性評価手法: NMR分光法 (1H, 13C, 19F) と単結晶X線構造解析を主要な評価ツールとして使用した。
    • 触媒性能評価: 既知のBrønsted酸触媒反応であるフリーデル・クラフツアシル化反応を用いて、HTBTの触媒活性を評価した。

    2: HTMP·TBT塩の合成と初期精製

    • 主要反応物: ビス(トリフリル)メタン (6.0当量) とトリホルミルメタン (1.0当量) を出発原料とした。
    • 反応条件:
      • ジクロロメタン (CH2Cl2) 溶媒中、低温 (-78 °C) から室温で反応させた。
      • 無水酢酸 (16当量) とトリメチルオルトアセタート (4.0当量) を添加し、Knoevenagel型縮合を促進した。
    • TMP処理: 反応混合物を濃縮後、2,2,6,6-テトラメチルピペリジン (TMP, 6.0当量) を加えてHTMP·TBT塩を形成させた。
    • 精製: 有機溶媒抽出、酸性水溶液での洗浄、および再結晶化を繰り返すことで精製を行い、5.8%の収率でHTMP·TBT塩を得た。
    • 構造決定: 得られたHTMP·TBT塩の構造は、1H, 13C, 19F NMRスペクトルと単結晶X線構造解析により確認された。

    3: 遊離酸HTBTの合成と安定性評価

    • HTBTの生成: HTMP·TBT塩を濃硫酸で処理することにより、遊離のC–H酸であるHTBTを合成した。
    • 不安定性の問題: 生成したHTBTは、室温および−25 °Cで安定性が非常に低いことが判明し、分解が観察された。そのため、正確な単離収率を決定することはできなかった
    • 構造解析:
      • NMRスペクトルおよび単結晶X線構造解析により、酸性プロトンが中央の炭素原子ではなく、2つのトリフリル基の間に位置することが確認された。
      • この結果から、HTBTは交差共役デンドラレン型C–H酸として特徴づけられた。
    • 安定性評価: NMR測定を繰り返し行い、HTBTの分解速度を観察したところ、3日後にはほとんどのシグナルが消失していた。

    4: Brønsted酸触媒能とアニオンの配位性評価

    • 触媒活性の評価: 新鮮に調製したHTBTを、弱反応性のクロロベンゼンとp-フルオロベンゾイルクロリドのフリーデル・クラフツアシル化反応に適用し、そのBrønsted酸触媒能を評価した。
      • 触媒使用量は5 mol%とした。
    • エーテラート塩の合成: HTBTがエーテルをプロトン化できるかを確認するため、過剰量のジエチルエーテル (Et2O) をHTBTに添加し、エーテラート塩の形成を試みた。
    • エーテラート塩の構造解析:
      • 得られたエーテラート塩の単結晶X線構造解析を行い、TBTアニオンの構造と、オキソニウムプロトンの配位様式を詳細に分析した。
      • この結果を、既知のBArFエーテラート ([B(C6F5)4][H(OEt2)2]+) と比較し、TBTアニオンの配位性を評価した。

    結果

    1: HTMP·TBT塩の合成と構造的特徴

    • HTMP·TBTの合成収率: トリホルミルメタンとビス(トリフリル)メタンからの合成により、5.8%の収率でHTMP·TBT塩が得られた。
    • 結晶構造解析 (HTMP·TBT):
      • HTMPカチオンは、溶媒として導入された水分子と優先的に水素結合を形成した (N…O距離: 2.780(4) Å)。
      • TBTアニオンとのN…O距離は2.971(3) Åであり、水分子との距離よりも長かった。
      • TBTアニオンは、わずかに非平面なキラル配座をとることが確認された。
      • ビニル水素原子とスルホニル酸素原子間の短い接触が、この非平面性の原因である可能性が示唆された。
      • 中央炭素原子周りには局所的なC3対称性が見られたが、アニオン全体としてはC3対称性は観察されなかった。
    • NMRスペクトル: 1H, 13C, 19F NMRスペクトルにより、合成された化合物の構造が確認された。

    2: 遊離酸HTBTの不安定性と触媒活性

    • HTBTの単離とプロトン位置:
      • HTMP·TBT塩を濃硫酸で処理することで、遊離のC–H酸HTBTが生成された。
      • NMRおよび単結晶構造解析により、酸性プロトンは中央炭素原子ではなく、2つのトリフリル基の間に位置し、HTBTが交差共役デンドラレン型C–H酸であることが確認された。
    • HTBTの安定性: HTBTは、室温および−25 °Cで非常に不安定であり、経時的な分解が観察された。
      • NMRスペクトルでは、3日後にはHTBTに由来するシグナルが消失した。このため、正確な単離収率は決定できなかった。
    • Brønsted酸触媒活性:
      • HTBTは、クロロベンゼンとp-フルオロベンゾイルクロリドのフリーデル・クラフツアシル化反応においてBrønsted酸触媒として機能した
      • しかし、収率は27%にとどまり、既報の強力なC–H酸TTPが与えた59%の収率と比較して低かった。触媒の分解も観察された。

    3: TBTアニオンの配位性と非配位性分類

    • エーテラート塩の形成: HTBTを過剰なジエチルエーテルと反応させることで、TBT·H(OEt2)2エーテラート塩が形成された。これはHTBTの強力な酸性度を裏付ける。
    • エーテラート塩の結晶構造:
      • 単結晶X線構造解析により、TBTアニオンはHTMP·TBT塩と同様に、理想的なC3対称性も平面構造もとらないことが再確認された。
      • オキソニウムプロトンは、TBTアニオンのトリフリル酸素原子ではなく、第2のエーテル分子の酸素原子に配位する傾向を示した。
    • 非配位性アニオンとの比較:
      • エーテラートカチオン中の2つのエーテル酸素原子間の平均距離は2.444 Åであった。
      • この距離は、代表的な弱い配位性アニオンであるBArFに基づくエーテラート ([B(C6F5)4][H(OEt2)2]+) の酸素原子間距離2.445 Åとほぼ同一であった。
      • この類似性から、TBTアニオンはC–H酸に基づく弱い配位性アニオンとして分類できる可能性が強く示唆された。

    考察

      1: HTBTの設計と構造的特徴に関する考察

      • デンドラレン骨格の成功と構造的制約:
        • 多くの電子求引基 (トリフリル基) を導入したデンドラレン型C–H酸HTBTの合成に成功し、超強力酸設計の可能性を示した。
        • しかし、結晶構造解析により、HTBTの酸性プロトンは中央炭素ではなく2つのトリフリル基間に位置し、TBTアニオンは設計上のC3対称性や平面構造ではなく、非平面なキラル配座をとることが明らかになった。
      • 非平面性の原因: この非平面性は、ビニル水素原子とスルホニル酸素原子間の短い接触に起因すると推測される。
      • 負電荷の非局在化: TBTアニオンにおける負電荷の6つのトリフリル基への高度な非局在化は、設計通りに実現され、高い酸性度を裏付ける。

      2: HTBTの触媒活性と不安定性の課題

      • Brønsted酸触媒活性の確認: HTBTは、弱反応性のクロロベンゼンを用いたフリーデル・クラフツアシル化反応を触媒することができ、その強力なBrønsted酸性度を実証した。
      • 安定性不足による性能への影響: HTBTの室温および低温での低い安定性は、触媒分解を招き、既報のTTPと比較して低い収率に繋がったと考えられる。
      • 実用化への課題: HTBTの不安定性は、触媒としての実用的な応用に向けた最大の課題である。
      • 安定性向上の可能性: 分解経路である求核攻撃を防ぐために、非配位性かつ非極性溶媒中での安定性向上が期待されるが、現状ではHTBTを溶解できる適切な溶媒系は見つかっていない。

      3: TBTアニオンの非配位性と新しい概念

      • エーテルプロトン化による酸性度の証明: HTBTがエーテルをプロトン化しエーテラート塩を形成したことは、その非常に強い酸性度を明確に示している。
      • プロトン配位様式の特異性: オキソニウムプロトンがTBTアニオンのトリフリル酸素原子ではなく、第2のエーテル分子の酸素原子に配位するという発見は極めて重要である。これは、TBTアニオンがプロトンに対して非常に弱い配位性を持つことを強く示唆する。
      • BArFエーテラートとの類似性: エーテラートカチオン中の酸素原子間距離が、代表的な弱い配位性アニオンであるBArFのエーテラートとほぼ同一であったことは、TBTアニオンがC–H酸に基づく弱い配位性アニオンとして分類できる根拠となる。
      • 有機合成への新たな展望: この新しいタイプの非配位性アニオンの発見は、今後の超強力酸触媒やイオン性液体設計において、新たなアニオン骨格の可能性を拓くものである。

      4: 先行研究との関連と位置づけ

      • 高酸性度C–H酸の基礎: 本研究は、電子求引基の数とC–H酸の酸性度が相関するというこれまでの知見 (例: トリス(トリフリル)メタン、TTP) に基づいており、この概念をさらに高度な骨格で拡張したものである。
      • 合成手法の適用: 合成中間体であるトリホルミルメタンは、Yanaiらが開発したビス(トリフリル)メタンとアルデヒドのKnoevenagel型縮合反応を応用して合成された。
      • 非配位性アニオン研究との接点: TBTアニオンの弱い配位性を示すためのBArFエーテラートとの比較は、非配位性アニオンに関する既存の広範な研究 (Ref. 12) に直接関連し、C–H酸由来のアニオンがこの分野に貢献しうることを示唆する。
      • デンドラレン骨格の応用: フルオレンやジベンゾフルオレンをベースとした炭化水素系C–H酸の研究 (Kuhnら, Ref. 3) と同様に、デンドラレン骨格も強力なC–H酸骨格としての可能性を持つことが示された。

      5: 研究の限界点

      • HTBTの低安定性: HTBTは室温および低温で非常に不安定であり、分解が速く、単離収率を正確に決定できなかったことが最大の限界点である。これは、触媒としての実用的な利用を大きく制限する。
      • 適切な溶媒系の欠如: HTBTを安定的に溶解できる非配位性かつ非極性溶媒が未だ見つかっていない。これにより、安定性向上やさらなる反応性評価が困難となっている。
      • 既存触媒に対する性能劣位: フリーデル・クラフツアシル化反応において、HTBTは既報のTTPよりも低い触媒収率しか得られなかった。これは、単に不安定性だけでなく、触媒としての活性サイトの最適化や反応条件の検討が必要であることを示唆している。
      • TBTアニオンの非理想的構造: TBTアニオンが、設計目標であった理想的なC3対称性や平面構造をとらなかったこと は、理論と実際とのギャップを示しており、この構造的特性が酸性度や安定性に与える影響について、さらなる詳細な考察が求められる。

      結論

      • 新規デンドラレン型C–H酸HTBTの合成: 高度にトリフリル基が置換された交差共役デンドラレン型C–H酸HTBTの設計と合成に成功した。
      • TBTアニオンの非平面構造: 結晶構造解析により、HTBTおよびそのアニオンTBTが非平面でキラルな配座をとることが明らかになった。
      • Brønsted酸触媒活性: HTBTは低い安定性にもかかわらず、フリーデル・クラフツアシル化反応のBrønsted酸触媒として機能することが示された。
      • 弱い配位性アニオンとしての可能性: TBTアニオンは、その構造的特徴から、C–H酸に基づく新しいタイプの弱い配位性アニオンとして分類できる可能性が示唆された。

      将来の展望

                                          • 超強力酸化学への貢献: 本研究は、高度に共役したデンドラレン骨格が超強力なC–H酸の基礎となりうることを示し、新しい酸性度設計の概念を提示した。
                                          • 新しい非配位性アニオンの創出: TBTアニオンの弱い配位性は、今後の触媒設計やイオン性液体開発において、従来の非配位性アニオンに代わる新たな選択肢を提供する。
                                          • 実践への提言: HTBTの安定性向上のための溶媒系や構造修飾のさらなる探求は不可欠である。
                                          • 将来の研究方向: TBTアニオンの非配位性メカニズムのより詳細な解明と、より広範なBrønsted酸触媒反応への応用可能性の検討が期待される。

                                          用語集

                                          • C–H酸 (C–H Acid): 炭素-水素結合からプロトン (H+)  が容易に解離する性質を持つ化合物の総称。
                                          • デンドラレン型C–H酸 (Dendralenic C–H Acid): デンドラレンと呼ばれる分岐状の共役炭化水素骨格を持つC–H酸。
                                          • 電子求引基 (Electron-Withdrawing Group, EWG): 分子内の電子を引き寄せる性質を持つ原子または原子団。分子の酸性度を高める効果がある。
                                          • トリフリル基 (Triflyl Group, Tf): トリフルオロメタンスルホニル基 (–SO2CF3) のこと。非常に強力な電子求引基である。
                                          • Brønsted酸触媒 (Brønsted Acid Catalysis): プロトン (H+)  を供与することによって化学反応を促進する触媒作用。
                                          • 交差共役 (Cross-conjugated): 複数の共役系が共通の原子を介して結合しているが、互いに直接共役していない状態。
                                          • 非配位性アニオン (Non-coordinating Anion, NCA): 陽イオンとの相互作用が極めて弱いアニオン。触媒反応などで陽イオンを活性化するために用いられる。
                                          • フリーデル・クラフツアシル化反応 (Friedel–Crafts Acylation): ルイス酸触媒を用いて、芳香族化合物にアシル基を導入する反応。

                                          TAKE HOME QUIZ

                                          1. 酸の設計思想 この研究で新しい強酸HTBTを設計するにあたり、研究者たちはどのような考えに基づいていましたか?酸性度を高めるための2つの重要な設計戦略を、ソースに基づいて説明してください。
                                          2. HTBTアニオン(TBT⁻)の構造 HTBTからプロトンが脱離して生成するアニオン(TBT⁻)について、結晶構造解析から明らかになった構造的特徴を2つ挙げてください。また、なぜ設計時に期待された平面構造にならなかったと推測されていますか?
                                          3. HTBT遊離酸の合成と安定性 HTBTの遊離酸は、どのような手順で合成されましたか?。また、その収率を決定できなかった理由は何ですか?
                                          4. 触媒としての性能 HTBTのブレンステッド酸触媒としての活性を調べるために、どのような反応が試されましたか?。また、関連する酸であるTTPと比較して、その結果はどうでしたか?
                                          5. 弱配位性アニオンとしての可能性 論文の結論部分で、TBT⁻アニオンが「弱配位性アニオン(weakly coordinating anion)」として分類できる可能性が示唆されています。その最も強力な根拠となった実験結果は何ですか?具体的に説明してください。

                                          解答

                                          1. 酸の設計思想

                                          • 電子求引性基(EWG)の数を増やすこと:炭素原子は窒素や酸素よりも価数が高いため、より多くの電子求引性基を結合させることができます。この研究では、強力な電子求引性基であるトリフリル基(Tf)を可能な限り多く導入することで、酸性度を高めることを目指しました。
                                          • π共役系を拡張し、負電荷を非局在化させること:アリル型のC–H酸であるTTPの骨格をさらに拡張した、デンドラレン型の骨格を採用しました。これにより、脱プロトン化して生成するアニオン(TBT⁻)の負電荷が、6つのトリフリル基にわたって高度に非局在化し、アニオンが安定化されることが期待されました。

                                          2. HTBTアニオン(TBT⁻)の構造

                                          • 非平面(non-planar)でキラリティを持つ立体配座:設計段階では平面構造の可能性が期待されていましたが、実際の結晶構造解析では、TBT⁻アニオンは平面ではなく、わずかにねじれたキラリティを持つ立体配座をとることが明らかになりました。
                                          • C₃対称性の欠如:アニオン全体としてのC₃対称性は観測されませんでした。

                                          平面構造にならなかった理由は、ビニル位の水素原子とスルホニル基の酸素原子との間の立体的な反発(short contacts)によるものと推測されています。

                                          3. HTBT遊離酸の合成と安定性

                                          HTBTの遊離酸は、その塩であるHTMP・TBTを濃硫酸(H₂SO₄)で処理することで合成されました。 収率を決定できなかったのは、HTBTが室温および−25℃において不安定ですぐに分解してしまうためです。

                                          4. 触媒としての性能

                                          触媒活性を調べるため、反応性の低いクロロベンゼンとp-フルオロベンゾイルクロリドを用いたフリーデル・クラフツ アシル化反応に用いられました。 その結果、HTBTは触媒として機能したものの、収率は27%であり、TTPを用いた場合の収率59%よりも低い結果でした。また、HTBTを用いた反応では触媒の分解も観測されました。

                                          5. 弱配位性アニオンとしての可能性

                                          HTBTを過剰のジエチルエーテル(Et₂O)と反応させて得られたエーテラート塩 [TBT]⁻[H(OEt₂)₂]⁺ の結晶構造解析が根拠となります。 この結晶中で、カチオン部分である [H(OEt₂)₂]⁺ の2つのエーテル酸素原子間の距離(平均2.444 Å)が、代表的な弱配位性アニオンであるBArF⁻のエーテラート塩 [B(C₆F₅)₄]⁻[H(OEt₂)₂]⁺ における酸素原子間距離(2.445 Å)とほぼ同一であることがわかりました。この構造的類似性から、TBT⁻アニオンも同様のアニオン配位挙動を示す、すなわち弱配位性アニオンとして分類できると結論付けられました。

                                          2025年9月29日月曜日

                                          古典日本有機合成化学~その1~久原躬弦らによるベックマン転位に関する一連の研究

                                          論文のタイトル: ベックマン轉位に就て

                                          一連の論文に関わった著者: 久原躬弦*、藤堂良譲、甲斐荘楠香、岡田徹平、水津嘉之一郎、松宮馨、松波直彦

                                          雑誌名: 東京化學會誌
                                          巻・頁・年: 
                                          • 第一報、第三十二帙、一三二頁、明治四十四年(1911年)
                                          • 第二報については、第三報によれば同誌の三八七頁にあるとのことだったがその前後のページは見当たらなかった(ご存じの方がいれば是非ご連絡いただきたい)
                                          • 第三報、第三十五帙、二四〇頁、大正三年(1914年)
                                          • 第四報、第三十六帙、二〇九頁、大正四年(1915年)
                                          • 第五報、第三十六帙、四六五頁、大正四年(1915年)

                                          背景

                                          1: 研究の背景

                                          • ベックマン転位の理論: 1900年当時、ベックマン転位(1886年に報告)のメカニズムについては、多くの化学者によって様々な理論が提唱されていた。
                                          • 研究材料の不足: しかし、それらの理論を裏付けるための研究材料が不十分であったため、まだ満足のいく結論には至っていなかった。
                                          • これまでの研究: C. H. Sluiterはメチルフェニルケトオキシムの転位速度を測定し、一次反応に相当する結果を得ている。(参照
                                          • 本研究の重要性: 本研究は、異なる条件下での転位速度を測定し、反応機構を詳細に解明することを目指したものであり、当時、この分野の理解を深める上で重要であった。

                                          2: 研究のギャップと戦略

                                          • 未解決の問題: 従来の理論では、転位反応がなぜ、またどのような条件下で進行するのか、特に反応試剤がどのように影響を与えるのかが明確ではなかった。
                                          • 研究のギャップ: 特に、ケトオキシムから生成する中間体の存在や、その中間体がどのように最終生成物へと変化するのかという具体的な過程は、仮説の段階に留まっていた。
                                          • 戦略1: 種々の塩化アシル基がジフェニルケトオキシムの転位に及ぼす影響を調査し、転位速度を測定すること。
                                          • 戦略2: 塩酸によるアセチルジフェニルケトオキシムの転位速度を測定し、反応機構を考察すること。

                                          3: 具体的な研究目的

                                          • 目的1:転位機構の解明: 一連の実験結果に基づき、ベックマン転位の反応機構に関する新たな説を提唱すること。
                                          • 目的2:酸根(カウンターアニオン)の役割の検証: 転位反応における「酸根」の存在が必須条件であるという仮説を立て、これを実験的に検証すること
                                          • 目的3:中間体の単離と合成: 転位反応の途中で生成されると推定される中間体(イミド酸置換体のアシル誘導体)を実際に単離し、また別途合成すること。
                                          • 期待される成果: これらの目的を達成することで、ベックマン転位の本質をより明確にし、確固たる理論を構築することが期待される。

                                          方法

                                          1: 研究デザインの概説

                                          • 本研究は、特定の条件下で化学反応を進行させ、その生成物と反応速度を測定する実験的研究である。
                                          • 主要な実験1: ジフェニルケトオキシムと種々の塩化アシル基(塩化アセチル、クロロアセチルクロリド、ベンゼンスルホニルクロリド)との反応。
                                          • 主要な実験2: アセチルジフェニルケトオキシムと塩酸との反応。
                                          • 主要な実験3: 転位反応の中間体と推定される化合物の合成と、その性質の確認。

                                          2: 反応条件と手順

                                          • 反応物質: 主にジフェニルケトオキシムとその誘導体を使用した。試剤として塩化アセチル、クロロアセチルクロリド、ベンゼンスルホニルクロリド、塩酸などを用いた。
                                          • 溶媒と濃度: 反応はクロロホルム溶媒中で行い、多くの場合、反応物の濃度は1/2規定溶液とした。
                                          • 温度管理: 反応は60℃の恒温槽や沸騰水中など、一定の温度条件下で実施した。反応後の進行を防ぐため、前後の処理は氷中で行った。
                                          • 手順の概略: 反応物を閉鎖管に封入し、一定時間加熱後、反応を停止させた。その後、溶媒を除去し、生成物を分離・精製した。

                                          3: 主要評価項目と測定方法

                                          • 主要評価項目: ベックマン転位の生成物であるベンズアニリドの生成量。
                                          • 定量方法:
                                            1. 反応後の混合物からクロロホルムを蒸発させる。
                                            2. 残渣を20%苛性ソーダ溶液で処理し、不溶物を濾過・洗浄する。
                                            3. 不溶物を酒精(アルコール)に溶かし、再度濾過して蒸発乾固させる。
                                            4. 得られたベンズアニリドを110℃で乾燥させた後、秤量した。
                                          • 生成物の同定: 得られたベンズアニリドが純粋であることは、融点が158-159℃であることを確認して保証した。

                                          4: 統計・解析手法

                                          • 反応速度の解析: 実験結果から、転位は一次反応に属するものと推定した。
                                          • 速度定数の算出: 以下の一次反応の速度式を用いて、反応速度定数(K)を算出した。
                                            • 0.4343 K = 1/t log(a / (a-x))
                                            • t: 時間, a: 初濃度, x: 時間tにおける生成物の濃度
                                          • 結果の解釈: 異なる反応試薬を用いた場合のベンズアニリド生成率(%)や、算出された速度定数を比較することで、反応機構を考察した。
                                          • 補足: 反応初期の速度定数に多少の変動が見られたが、これは閉鎖管内の物質が恒温槽の温度に達するまでの時間的遅れが原因と考察された。

                                          結果

                                          1: 塩化アシル基の反応性の違い

                                          • ジフェニルケトオキシムに3種類の塩化アシル基を60℃で作用させた結果、転位速度に顕著な差が見られた。

                                          • 塩化アセチル: 10分間では全く反応せず、15分でようやく2.4%がベンズアニリドに変化した。

                                          • クロロアセチルクロリド: 10分間で半分以上が転位した。

                                          • ベンゼンスルホニルクロリド: 10分間でほぼ全てがベンズアニリドに変化した。

                                          • 結論: 転位の速さは、塩化アシル基の元となる酸の強さ(解離定数の大きさ)と一致する傾向を示した。

                                          2: アセチル体の転位と温度の影響

                                          • 塩化アセチルによる転位: 60℃では、塩化アセチルによるジフェニルケトオキシムの転位は程よく進行した。
                                          • 塩酸によるアセチル体の転位: 一方、アセチルジフェニルケトオキシムに塩酸を作用させた場合、60℃では転位が極めて緩慢でほとんど認められなかった。
                                          • 高温での反応: しかし、同じ反応を沸騰水(約100℃)の温度で行うと、転位は非常に迅速に進行した。
                                          • 考察: 同一温度では両者の反応性に違いが見られた。これは反応時に生成する塩酸の状態(塩酸塩か遊離か)の違いによるものと推察される。

                                          3: 中間体の単離と合成

                                          • 目的: 転位反応の中間体として仮定したイミド酸エステルを実際に得ることを目指した。
                                          • アセチルエステルの場合: アセチル体は酸の助けがないと転位しないため、中間体(酢酸フェニルベンズイミド)を遊離状態で得ることは不可能だった。
                                          • スルホニルエステルの場合: ジフェニルケトオキシムのベンゼンスルホニルエステルは、加熱により自発的に(爆発的に)転位し、目的の中間体(ベンゼンスルホン酸フェニルベンズイミド)を遊離状態で得ることに成功した
                                          • 別途合成による証明: さらに、この中間体(黄色油状物質)を塩化フェニルベンズイミドとベンゼンスルホン酸銀から別途合成し、転位生成物と同一であることを物理化学的性質(吸収スペクトルなど)から確認した。

                                          考察

                                          1: 酸根(カウンターアニオン)の陰性度と転位速度

                                          • 発見: オキシムの転位速度は、反応によって生成するオキシムエステルに含まれる酸根の陰性の強さと密接な関係がある。
                                          • メカニズム:
                                            1. 酸根の陰性が強いほど、窒素原子との結合が弱くなり、不安定な系を形成する。
                                            2. このため、酸根が窒素から解離しやすくなる傾向が強まる。
                                            3. 酸根の解離が引き金となり、炭素に結合した炭化水素基が窒素へ移動し、酸根が炭素と結合するという位置交換(転位)が容易に起こる。
                                          • 重要性: この発見は、転位反応の駆動力は酸根の化学的性質(陰性度)に起因するという、反応機構の核心に迫るものである。

                                          2: 転位における酸の役割

                                          • 発見: 陰性の弱い酸根を持つエステル(例:アセチルオキシム)の転位には、塩酸のような外部の酸の存在が必須である。
                                          • メカニズム:
                                            1. アセチルオキシムは、塩酸と反応して塩酸塩を形成する。
                                            2. これにより、窒素原子に添加された塩酸の影響で、酢酸根の陰性がさらに増大する。
                                            3. 結果として、酢酸根が窒素から分離する傾向が強まり、転位が進行する。
                                          • 対照的な例: 一方、陰性の強いベンゼンスルホニルオキシムは、外部の酸の助けがなくても自発的に転位する。
                                          • 重要性: この発見は、酸が触媒としてだけでなく、反応中間体の化学的性質を変化させることで転位を促進するという具体的な役割を明らかにした。

                                          3: 先行研究との比較(支持)

                                          • Sluitterの研究: Sluitterは転位反応が一次反応に相当することを示唆しており、本研究で一次反応式を用いて速度定数を算出したことと整合する。
                                          • Beckmannの研究: Beckmannは、ジフェニルケトオキシムが塩化アセチルと作用してエステルを生成し、その後、副生する塩酸によって転位が起こることを記述している。これは、本研究の「アセチル体の転位には酸が必要」という結論を支持する。
                                          • Hantzschの研究: アセチルベンズヒドロキサム酸は温和な加熱でジフェニル尿素を生成(転位が起こる)するが、ベンズヒドロキサム酸は煮沸しても分解しない。これは、転位にアセチル基(酸根)の存在が重要であるという本研究の主張を強く支持する。

                                          4: 先行研究との比較(発展)

                                          • ThieleとPickardの説: 彼らはジベンズヒドロキサム酸の転位において、イソシアン酸エステルが中間体として生成すると提唱した。
                                          • 本研究の発展: 本研究では、彼らの説を発展させ、転位の根本原因は酸根の解離にあり、その結果としてイミノ炭酸誘導体(本研究で単離・合成した中間体)が生成し、それが分解してイソシアン酸エステルになるとした。
                                          • Mummの研究: Mummは塩化フェニルベンズイミドからアシルベンズアニリドを合成したが、反応中間体(イミド酸エステル)の単離には至らなかった。
                                          • 本研究の貢献: 本研究では、小玉氏らの研究を引き継ぎ、ベックマン転位の過程で生成が仮定されていた中間体を世界で初めて単離・合成し、その存在を実験的に証明した

                                          5: 研究の限界点

                                          • アセチル体中間体の単離: 酢酸フェニルベンズイミド(アセチル基を持つ中間体)は非常に不安定であり、遊離状態で純粋に得ることは困難であった。
                                          • 合成の難しさ: 塩化フェニルベンズイミドに金属の酢酸塩を作用させる方法でも、目的物ではなく分解物であるベンズアニリド等が生成することが多く、安定した合成条件を見出すことができなかった。
                                          • 反応初期の測定精度: 反応初期における速度定数には、実験装置の温度が安定するまでの時間的遅れによる多少の変動が見られた。

                                          結論

                                          1. ベックマン転位は、オキシムエステル中の酸根の解離が引き金となる分子内転位である
                                          2. 転位の速度は酸根の陰性の強さに比例し、陰性が弱い場合は外部の酸が転位を促進する。
                                          3. 転位反応の中間体であるイミド酸エステル(ベンゼンスルホン酸フェニルベンズイミド)の存在を、単離と合成によって初めて実験的に証明した
                                          • 分野への貢献: これらの結果は、長年の謎であったベックマン転位の反応機構に明確な説明を与え、その本質が「イミド酸置換体のアシル誘導体を経由する反応」であることを実証した。