著者: Albert Solé-Daura and Feliu Maseras*
雑誌名: Chemical Science
巻: Vol. 15, Issue 34, pp. 13650-13658
出版年: 2024
DOI: https://doi.org/10.1039/D4SC03352C
背景
1: 光触媒作用の可能性
- エネルギー移動(EnT)光触媒作用は、合成化学に革命をもたらす可能性を秘めています。
- この技術により、通常では反応しない「非発色性化合物」の励起状態反応性を間接的に活性化できます。
- これにより、従来の基底状態経路ではアクセスできない貴重な分子骨格の合成が可能になります。
- 光触媒作用は、太陽光という再生可能エネルギー源を活用し、社会の持続可能性目標に貢献します。
2: 未解明な領域と課題
- EnT光触媒作用は将来性が高いにもかかわらず、計算化学の分野ではまだ未開拓の領域が広範に残されています。
- このメカニズムに関する知識の不足が、構造活性相関や設計ルールの開発を妨げています。
- 結果として、EnT光触媒作用の成功は、多くの場合コストのかかる実験的な試行錯誤に依存しています。
- この研究は、このギャップを埋めるため、古典的マーカス理論とDFT計算の応用を検討することを目的としています。
3: 研究の目的
- 本研究は、より洗練された手法に代わる費用対効果が高く、使いやすい計算手法として、古典的マーカス理論の可能性を体系的に検証しました。
- 特に、アルケンの間接的な増感に関する詳細な実験的データ(GilmourおよびKerzigらの報告)を堅牢な参照値として活用しました。
- また、「非対称」マーカス理論の変形を初めて応用し、従来の仮定からのずれを考慮しました。
- 本手法がEnTの自由エネルギー障壁を非常に高い精度で予測できることを示し、計算化学分野の研究を促進することを目指します。
方法
1: 計算的手法のアプローチ
- 本研究では、古典的なマーカス理論を密度汎関数理論(DFT)計算と組み合わせて適用しました。
- この手法は、反応物と生成物の状態間に電子カップリングがないと仮定する純粋に古典的なマーカス理論の変形を使用します。
- これは、電子カップリングを明示的に含む半古典的なマーカス理論に比べて、計算コストが高い複雑な量子効果の考慮を避けることができます。
- これにより、EnTプロセスの速度論を推定するための簡便な戦略が提供されます。
2: 研究対象の選定
- 本研究では、Gilmour、Kerzigらのグループが報告した、光触媒(PC)によるアルケン(基質1-4)の間接的な増感に関する詳細な運動学的調査データを実験的参照として利用しました。
- 主に、芳香族ケトンであるチオキサントン(TX)を光触媒として用いて、アルケン1-4の増感プロセスを調査しました。
- 加えて、イリジウム(III)ベースおよびルテニウム(II)ベースの遷移金属光触媒を用いて、基質3のEnT反応性も分析しました。
- これらの光触媒は、それぞれ異なる三重項状態エネルギーと反応性を持つことが知られています。
3: 評価項目と測定
- 主要な評価項目として、エネルギー移動(EnT)のギブズ自由エネルギー障壁(ΔG‡)を算出しました。
- これらの計算値は、実験的に決定された反応速度定数からアイリング方程式を用いて導出された実験障壁と比較されました。
- マーカス理論の適用に必要なパラメータとして、反応ギブズ自由エネルギー(ΔG°r)と再配列エネルギー(λ)をDFT計算によって求めました。
- 再配列エネルギーは、反応物(λR)と生成物(λP)のそれぞれのエネルギー曲面上で個別に計算され、特にその違いが重視されました。
4: 計算の詳細
- DFT計算は、B3LYP-D3BJレベルの理論で実施され、Gaussian 16量子化学計算パッケージを使用しました。
- 分子の構造最適化と振動数計算には、典型元素にはcc-pVDZ基底関数系を、IrおよびRu金属中心にはLANL2DZ(f)基底関数系および擬ポテンシャルを使用しました。
- 電子エネルギーは、最適化された構造に対して、より広範な基底関数系を用いた一点計算によって補正されました。
- 溶媒効果は、アセトニトリルのIEF-PCM暗黙的溶媒和モデルを用いて導入されました。
- マーカス理論の計算には、対称モデル(kR = kP)と非対称モデル(kR ≠ kP)の両方を使用し、その性能を比較しました。
結果
1: マーカス理論の精度
- 本アプローチは、EnTプロセスにおける自由エネルギー障壁を高い精度で推定する顕著な能力を示しました。
- 実験値との典型的誤差は2 kcal mol−1未満であり、平均絶対誤差(MAE)は1.2 kcal mol−1でした。
- 特に、非対称マーカス理論は、対称アプローチよりも実験値に近い自由エネルギー障壁を一貫して与えました。
- これは、反応物と生成物の再配列エネルギーに顕著な差(平均で31 kcal mol−1)があること、特に励起アルケンのビラジカルな性質により生成物側の曲面がより平坦であることに起因します。
2: TXによるアルケンの増感
- TX(チオキサントン)とアルケン1-4の間のすべてのEnTプロセスは、熱力学的に有利(ΔG°r < 0)であることが確認されました。
- 高度に共役した二重結合を持つ基質(2、3、4Z)は、ラジカルの非局在化が促進されるため、最も有利な反応自由エネルギーを示しました。
- 基質1-3については、理論的に導出された速度定数が実験値と良好な一致を示し、EおよびZ異性体の増感における実験的選択性傾向を再現しました。
- 微小速度論モデルを用いることで、光定常状態におけるE:Z比の実験的選択性傾向を定性的に再現できることが示されました。
3: アルケン4と遷移金属PC
- 基質4の場合、計算されたEnT障壁が非常に低く(4Eで1.0 kcal mol−1、4Zで2.5 kcal mol−1)、EnT速度がEnTプロセス自体ではなく拡散によって支配されていることが示唆されました。
- 拡散障壁は通常3~4 kcal mol−1のオーダーであり、これが実験的に決定された障壁の高さと4Eおよび4Zの類似した速度論を説明します。
- イリジウム(III)ベースの光触媒についても、非対称マーカス方程式は非常に正確なEnT自由エネルギー障壁の推定を提供しました。
- すべてのIr(III)系PCは基質を増感することに成功しましたが、ルテニウム(II)は不活性であり、これはその三重項エネルギーがアルケンへのEnTを許容するには不十分であったためとされます。
考察
1: 主要な発見とその意義
- 本研究は、古典的マーカス理論とDFT計算の組み合わせが、EnTプロセスの自由エネルギー障壁を推定するための信頼性の高いツールであることを明確に示しました。
- 特に、反応物と生成物の自由エネルギー曲線の幅が異なる場合に適用される非対称マーカス理論は、実験値と比較して平均誤差1.2 kcal mol−1と非常に高い精度を提供します。
- これは、励起状態のアルケンがビラジカル種としての特性を持ち、その生成物状態のポテンシャルエネルギー曲面が反応物よりも著しく平坦であるという分子レベルの洞察に基づいています。
- このアプローチは、複雑で計算コストの高い量子効果や電子カップリングの明示的な計算を回避できるため、実用的かつ費用対効果の高いEnT反応予測戦略となります。
2: 光触媒の設計指針
- 高い共役度を持つアルケンは、増感時に形成されるラジカルの非局在化が促進されるため、熱力学的に有利なEnTプロセスを示します。
- 電子効果と立体効果のバランスが取れた「スイートスポット」が存在し、これが最適なEnT速度をもたらす可能性があります。
- しかし、EnT障壁が非常に低い場合(例:基質4)、EnTプロセス自体が律速段階ではなく、むしろ光触媒と基質の拡散が全体の速度を支配することが明らかになりました。
- この洞察は、EnT光触媒反応における効率と選択性を最適化するための重要な設計指針を提供します.
3: 先行研究との比較
- マーカス理論は1956年に電子移動(SET)速度論の基礎的な説明として提案され、ノーベル化学賞も受賞した確立されたアプローチです。
- 本研究は、この確立されたマーカス理論の枠組みをEnTプロセスに拡張し、その有効性を定量的かつ体系的に実証しました。
- これまで、EnTプロセスへのマーカス理論の適用は、電子カップリングの複雑な考慮が必要なため、あまり探求されていませんでした。
- 本研究は、簡便な古典的マーカス理論が、定性的な傾向だけでなく、定量的な予測においても高い精度を持つことを示し、先行研究のギャップを埋めました。
4: 重要な影響因子
- 遷移金属ベースの光触媒に関する分析は、光触媒の三重項状態エネルギーがEnTプロセスの速度論を決定する重要な要因であることを再確認しました。
- しかし、光触媒の再配列エネルギーも、障壁の高さに大きな影響を与えることが示されました。例えば、TXやMeOTXの再配列エネルギーがIrベースの光触媒よりも小さいため、同様の三重項エネルギーを持つにもかかわらず、より速く基質を増感します。
- Ru(II)が不活性であった一方でIr(III)-Aが活性であったという実験結果は、光触媒の励起状態寿命や、EnTプロセスと競合する無生産的な基底状態への緩和プロセスの重要性を示唆しています。
5: 研究の限界
- 計算によって得られた生成物分布の定量的な精度は、計算精度の限界(通常1-2 kcal mol−1)内にあり、さらなる調整が必要な場合があります。
- EnT障壁の高さだけでなく、光触媒の光吸収能力、励起状態の寿命、そしてEnT自由エネルギーを決定する三重項エネルギーの精度など、他のパラメータも慎重に評価する必要があります。
- 特に、競合する副次的なプロセス(光触媒の無生産的な基底状態への緩和、三重項-三重項消滅、光触媒の分解など)が発生しうる高障壁のEnTプロセスを分析する際には、より注意深い評価が不可欠です。
結論
- 本研究は、マーカス理論とDFT計算の組み合わせが、エネルギー移動(EnT)プロセスの自由エネルギー障壁を正確に推定するための信頼性の高い実用的なツールであることを支持しました。
- 特に、「非対称」マーカス理論の適用は、励起されたアルケンのビラジカルな性質を考慮することで、高い予測精度を提供することが示されました。
- この費用対効果の高い計算プロトコルは、実験作業の効率化のための未踏の計算スクリーニングを可能にし、構造-活性相関を解明することで、効率が向上した新規光触媒システムの戦略的設計への道を開きます。
将来の展望
- 本研究は、EnT光触媒作用という新興分野における実質的な進歩を促進し、さらなる計算研究を促進することが期待されます。
- これまでEnT光触媒の領域は「 largely uncharted area」であり、どの道が効率的な合成経路に通じるのか、手探りでしか進めませんでしたが、Marcus理論とDFT計算を組み合わせるという「非対称的なアプローチ」という新しい羅針盤と、その「高精度の地図」の精度を実験データで検証したことで、闇雲な試行錯誤を減らし、より効率的かつ論理的に、貴重な分子への近道を見つけられるようになり、未来の化学者は、より迅速に目的の「宝(分子骨格)」にたどり着くことができるようになる。
用語集
- EnT (Energy Transfer) photocatalysis (エネルギー移動光触媒作用): 光触媒が光を吸収して励起状態となり、そのエネルギーを別の分子(基質)に移動させ、基質を反応活性な励起状態にするプロセス。
- Marcus theory (マーカス理論): 電子移動反応やエネルギー移動反応の速度論を説明するために開発された理論。反応の自由エネルギー障壁を、反応自由エネルギーと再配列エネルギーの関数として予測する。
- DFT (Density Functional Theory) calculations (密度汎関数理論計算): 量子力学的手法の一つで、電子の密度に基づいて分子や材料の電子構造や特性を計算する。
- Photocatalyst (光触媒, PC): 光を吸収して励起状態となり、そのエネルギーを他の分子に移動させて化学反応を引き起こす物質。
- Alkene (アルケン): 少なくとも1つの炭素-炭素二重結合を持つ有機化合物。
- Gibbs free energy barrier (ΔG‡) (ギブズ自由エネルギー障壁): 化学反応が進行するために必要な最小限のエネルギー。この障壁が高いほど反応は遅くなる。
- Reorganization energy (λ) (再配列エネルギー): 電子移動またはエネルギー移動反応の際に、分子構造や周囲の溶媒が変化(再配列)するために必要なエネルギー。
- Ground-state pathways (基底状態経路): 反応物が安定した基底状態のままで進行する化学反応経路。
- Excited-state reactivity (励起状態反応性): 分子が光エネルギーを吸収して励起状態になったときに示す反応性。
- Non-chromophoric compounds (非発色性化合物): 可視光を直接吸収しない化合物。
- Triplet state (三重項状態): 分子の励起状態の一つで、2つの電子のスピンが平行になっている状態。比較的長寿命で、光触媒反応で重要な役割を果たす。
- Biradical species (ビラジカル種): 2つの非対電子を持つ分子種。アルケンの三重項状態がこれに該当する。
- Implicit solvation models (暗黙的溶媒和モデル): 溶媒分子を明示的に含まず、連続体として扱って溶媒効果を計算するモデル。
TAKE HOME QUIZ
問題1:エネルギー移動(EnT)光触媒とは何ですか?その合成化学における重要性と、非発色性化合物の励起状態反応性をどのように可能にするかを説明してください。
問題2:本研究の主な目的は何ですか?
問題3:Marcus理論はEnTプロセスにどのように適用されますか?また、本研究で検討されたEnT自由エネルギーバリア推定の2つの主なアプローチを述べ、それらの主な違いを説明してください。
問題4:なぜ「非対称的」Marcus理論アプローチが、アルケンの増感におけるEnT自由エネルギーバリアの推定により適しているのですか?
問題5:アルケン4Eおよび4Zの増感において、低いEnTバリアが予測されたにもかかわらず、実験的に類似の速度が観察されたのはなぜか?
問題6:EnT光触媒プロセスの実行可能性を安全に評価するために、EnTバリアの高さ以外に考慮すべき重要なパラメーターには何がありますか?
解答
- EnT光触媒は、励起状態反応性を開拓し、通常は基底状態経路ではアクセスできない有用な分子骨格の合成ルートを開放する可能性を秘めています。この戦略は、非発色性化合物(光を吸収しにくい化合物)の励起状態反応性を間接的に増感することによって可能にします。典型的に、光触媒(PC)が光照射によって励起され、一重項励起状態から項間交差(ISC)を経て三重項状態(³PC*)に進化します。その後、この³PC*が基質を三重項-三重項EnTによって増感し、PCの基底状態を再生しながら、基質の三重項励起状態(T₁)を生成し、そこから反応が起こります。
- 解答のポイント:本研究は、古典的なMarcus理論とDFT計算を組み合わせたアプローチが、EnTプロセスの速度論を推定するための簡便な戦略として有効であるかを検証することに焦点を当てています。特に、異なる光触媒とアルケン分子間のエネルギー移動ギブズエネルギー障壁を推定するための信頼できるツールとして密度汎関数理論が示されています。この研究は、EnT光触媒における構造活性相関と設計規則の開発を妨げていた計算化学における未開拓の領域のギャップを埋めることを目指しています。
解答のポイント:Marcus理論は、元々電子移動(SET)の速度論を解明するために1956年に提唱されました。この理論は、反応物状態(GR(q))と生成物状態(GP(q))を記述する自由エネルギー盆地を、反応座標(q)上に投影された対称的な放物線関数として扱います。
本研究では、以下の2つのアプローチが検討されました。
- 対称的アプローチ(Symmetric approach):
- これは最も一般的な仮定であり、反応物と生成物の両方の放物線が同じ幅(すなわち、kR = kP)を持つと仮定します。この場合、自由エネルギーバリア(ΔG‡)は、反応ギブズ自由エネルギー(ΔG°r)と再配列エネルギー(λ)から計算されます。λは、理想的にはλP = λR = λですが、計算上はλPとλRの算術平均として決定されます。このアプローチはより大きな乖離を生じ、平均絶対誤差(MAE)は2.3 kcal mol⁻¹でした。
- 非対称的アプローチ(Asymmetric approach):
- このアプローチは、kR と kP が大きく異なる場合(すなわち、放物線の幅が異なる場合)に対応するために導入されました。より洗練された解析式(式4)が使用され、λRとλPおよびΔG°rをそれぞれ個別に組み込むことで、理想的な挙動からの逸脱を考慮します。このアプローチは、より正確なバリア推定値を提供し、MAEは1.2 kcal mol⁻¹でした。
- 対称的アプローチ(Symmetric approach):
- 解答のポイント: 非対称的アプローチがより適しているのは、アルケンの励起状態が双極子種であるためです。増感されると、アルケンは元々の二重結合の二つの炭素原子を中心とする双極子を形成し、三重項状態ではC-C結合の二重結合特性が失われるため、約90°のねじれ角への回転に伴うエネルギー損失が著しく小さくなります。この結果、生成物状態の曲面は反応座標に沿って著しく平坦になります。計算された再配列エネルギー(λ)を見ると、反応物表面(λR)と生成物表面(λP)で大きく異なり、特に反応物表面で平均して約31 kcal mol⁻¹も大きくなっています。これは、生成物状態の曲面が反応物状態よりも湾曲が少ないことを示しており、この非対称性を考慮する非対称的アプローチが、より正確なバリア推定値(MAE 1.2 kcal mol⁻¹)を提供します。
- 解答のポイント: これは、これらの基質のEnT速度がEnTプロセス自体によってではなく、拡散によって制御されていると仮定することで説明されます。計算された非常に低いバリア(それぞれ1.0 kcal mol⁻¹および2.5 kcal mol⁻¹)は、³TX*とアルケンを結合させるためのエントロピー支配のバリアが、EnTプロセスの固有のバリアよりも高いことを示唆しています。拡散バリアは通常3~4 kcal mol⁻¹のオーダーであるため、これが実験的に決定されたバリアの高さと、4Eと4Zで観察された類似の速度論(物理化学的性質が非常に似ているため、拡散速度が大きく変わるとは予想されない)を説明することができます。したがって、EnTステップが3 kcal mol⁻¹未満の自由エネルギーバリアで発生すると予測される場合、エントロピー的拡散バリアが全体の増感速度を制御していると考えるのが妥当です。
解答のポイント: EnTバリアの高さに加えて、以下のパラメーターを慎重に評価する必要があります。
- 光触媒の光吸収能力
- 光触媒の励起状態寿命
- EnT自由エネルギーを決定する三重項エネルギーの精度
- 競合する副反応:これには、光触媒の基底状態への非生産的な緩和の他に、三重項-三重項アニヒレーションや、金属ベースの錯体における配位子の損失やチオキサントンなどの芳香族ケトンが関与する水素原子移動イベントによる光触媒の分解などが含まれます。
0 件のコメント:
コメントを投稿