著者: Cijil Raju, Zhenhuan Sun, Ryo Koibuchi, Ji Yong Choi, Subhayan Chakraborty, Jihye Park, Hirohiko Houjou,* Klaus Schmidt-Rohr,* Grace G. D. Han*
背景
1: 分子太陽熱エネルギー貯蔵の進歩
- 分子太陽熱エネルギー貯蔵(MOST)は、太陽光エネルギーを化学結合に貯蔵し、必要に応じて熱として放出する効果的な方法として注目されています。
- 一般的なMOST化合物は、溶液中で光応答性のある異性化を起こし、準安定な異性体を形成します。
- エネルギー放出は、光照射、加熱、化学触媒、電気触媒によって引き起こされる逆異性化によってトリガーされます。
- 近年、固相で動作するMOSTシステムが開発され、エネルギー貯蔵密度と漏洩防止の向上が期待されています。
2: 固相MOSTシステムの課題と可能性
- 結晶相では分子の構造変化の自由度が低く、一般的な分子スイッチの光異性化が制限されるため、固相MOST応用が困難でした。
- 既存の固相フォトスイッチングシステムは、エネルギー貯蔵能力が未調査か不十分でした。
- 可逆的なトポケミカル環化付加反応は、結晶状態でのみ進行し、エネルギーを貯蔵できる準安定な環化付加物を生成するため、有望な候補とされています。
- トポケミカル反応は、大きな構造変化を伴う異性化と比較して、結合形成と解離に伴う構造変化が小さいという利点があります。
3: 研究の目的(ジアントラセンの複雑なエネルギー放出メカニズムの解明)
- 最近報告された9位と10位に置換基を持つアントラセンシステムは、約0.2 MJ kg⁻¹という顕著なエネルギー貯蔵と放出を示します。
- この高いエネルギー差は、光誘起二量化による芳香環の非芳香族化に起因すると考えられます。
- ジアントラセンのエネルギー貯蔵値が熱的な逆環化反応の活性化エネルギーに匹敵するため、自己活性化によるエネルギー放出が初めて観察されました。
- しかし、ジアントラセンの熱誘起逆環化反応は、非ガウス型発熱挙動という特異なDSCプロファイルを示し、一時的な中間混相の形成が示唆されています。
- これまで、固相における複雑な化学的・物理的変化のため、この顕著なエネルギー放出プロセスのメカニズムや速度論的理解は不十分でした。
- 本研究の目的は、包括的な固相分析(DSC、PXRD、固体NMR)を用いて、ジアントラセンの固相逆環化メカニズムを解明することです。
方法
1: 研究デザインと分析手法
- 本研究は、ジアントラセンの逆環化反応中に放出される多量のエネルギーに寄与する固相メカニズムを解明するために、包括的な固相分析手法を採用しました。
- 研究全体を通して、数時間にわたるゆっくりとした段階的な固相変換を可能にするため、50℃をわずかに下回る穏やかな熱条件が適用されました。
2: 主要な評価項目と測定方法
- 等温時分割DSC(示差走査熱量測定): 48℃でジアントラセンの全体的な発熱プロセスをモニターし、非ガウス型発熱曲線や複数の発熱イベントを特定しました。
- 時間分解PXRD(粉末X線回折): 49 ± 1℃で加熱中のジアントラセンの結晶構造変化を追跡し、初期発熱中の結晶構造のわずかな変化と、最終的なアントラセン結晶相の出現を観察しました。
- 等温固体NMR分光法(核磁気共鳴): 49 ± 1℃(一部は25℃)で加熱中のジアントラセンの化学組成変化と反応速度を分析し、過渡的な中間相の化学組成を特定しました。
3: データ解析方法
- 固体NMRデータの定量的解析: ジアントラセン、中間アントラセン、最終アントラセン結晶の3つの成分の時間依存性分率を定量的に分析しました。
- 速度論的解析: ジアントラセンの減衰曲線は、部分的に協調的な3DAvrami理論の解析方程式でフィッティングされ、各逆環化プロセスの協調的パラメーター(C)が導出されました。
- 密度汎関数理論(DFT)計算: Quantum ESPRESSO (QE) コードを用いて、化学変換と物理変換が総エネルギー放出に寄与する相対的な割合を調査しました。
- エネルギー項の計算: 総エネルギー放出(ΔĒcry)、化学解離エネルギー(ΔĒunit)、格子エネルギー変化(ΔĒlatt)が定義され、計算されました。
結果
1: 複雑な熱挙動と結晶構造変化
- 48℃での等温DSC測定では、全てのジアントラセンが非ガウス型発熱曲線を示し、逆環化中に複数の発熱イベントが存在することが示されました。
- 時分割PXRDでは、初期加熱時(1-Dと2-Dで4時間、3-Dで2時間)にはわずかなピークシフトが観察され、結晶構造の小さな変化が示唆されました。
- その後、加熱時間経過と共に最終的なアントラセン結晶相に対応する新しいPXRD信号が出現しました。
- これらの結果は、初期の化学変換(ジアントラセンの結合解離)が、ジアントラセン結晶に似た過渡的な中間相の形成につながり、その後、最終的なアントラセン結晶状態への段階的な相転移が起こることを示唆しています。
- 化学変換と相転移の両方が、逆環化中の全体的なエネルギー放出に寄与していることが明らかになりました。
2: 中間相の化学組成と動態
- 等温固体NMR分光法により、ジアントラセン四級炭素信号の減少と、アントラセン(例:C9炭素)の新しい信号の出現が確認され、逆環化プロセスが成功したことが裏付けられました。
- NMRスペクトルの詳細な分析では、一部のアントラセンピークに異なる時間経過を持つ2つの成分が存在することが明らかになりました。
- この最初の成分は初期に現れ、強度最大を通過した後に消失し、化学速度論における中間体の定義と一致し、中間相の存在を裏付けました。
- 中間相は、ジアントラセン結晶中にアントラセンがジアントラセン分子に囲まれた状態で存在することで形成され、その充填環境が純粋なアントラセン結晶とは異なるため、わずかに異なる化学シフトを示します。
3: 反応速度論とエネルギー寄与の内訳
- NMRデータから導出された3つの成分(ジアントラセン、中間アントラセン、最終アントラセン結晶)の時間依存性分率が示されました (Fig. 4)。
- ジアントラセン変換のシグモイド曲線は、固相における自己触媒的な逆環化反応を反映しており、速度論的解析により分子の協調性のレベルが異なることが示されました。
- 化合物1(R = CH₃)は最も低い協調性(C = 0.48)を示し、化合物2(R = OCH₃)と3(R = OAc)はより高い協調性(それぞれC = 0.67と0.56)を示しました。
- DFT計算の結果、化学解離(ΔĒunit)が全エネルギー放出(ΔĒcry)の主要な寄与因子であり、格子エネルギーの変化(ΔĒlatt)はわずかな追加エネルギー放出を提供することが示されました (Table 1)。
考察
1: 複雑なエネルギー放出メカニズムの解明
- 本研究は、ジアントラセンの固相エネルギー放出が、過渡的な中間相(ジアントラセン結晶中のアントラセンペア)の初期形成と、それに続く最終的なアントラセン結晶への相転移という複雑な経路を経ることを発見しました。
- この多段階プロセスは、等温時分割DSC、PXRD、および固体NMRという包括的な固相分析手法を組み合わせることで詳細に解明されました。
- この知見により、アントラセンベースのMOST化合物における化学変換と相転移の両方が、全体的なエネルギー貯蔵と放出に寄与することが定性的かつ定量的に区別されました。
2: 自己触媒的反応と分子協調性
- 逆環化反応の固相速度論的解析は、アントラセン誘導体における自己触媒反応の分子協調性を明らかにしました。
- NMRデータにフィッティングされたシミュレーション(Fig. 5)では、中間相(黄色領域)の空間分布と成長が、協調性の低い化合物1と3でより均一であることが示されました。
- 一方で、協調性の高い化合物2は、中間相のクラスター形成を示し、最終的なアントラセン結晶相を迅速に生成することを反映していました。
- 高い協調性を示す固相反応では、中間体や生成物の局所的な形成が、隣接分子の反応の活性化エネルギーを低下させ、さらなる反応を促進することが示唆されています。
3: エネルギー寄与の内訳と今後の設計指針
- 計算結果に基づき、ジアントラセンの逆環化における総エネルギー放出は、化学解離エネルギーと結晶格子安定化エネルギーの合計として記述されました。
- この解析により、化学解離が総エネルギー放出の主要な寄与因子であり、格子エネルギーの変化は比較的小さな追加エネルギー放出であることが明確になりました。
- 計算値は実験値よりも大きいものの、ΔĒunitとΔĒlattの相対的な寄与度は、アントラセンシステムにおける固相エネルギー貯蔵に関する重要な洞察を提供します。
- これらの根本的な洞察は、固相MOSTエネルギー貯蔵システムのさらなる設計を導く上で貴重な情報となります。
4: 先行研究との比較と研究の限界
- 従来の熱異性化や固相トポケミカル反応による発熱は、通常、ガウス型のDSCプロファイルを示します。本研究のジアントラセン系で観察された顕著な複数の発熱挙動は、検出可能な過渡的な中間混合相の形成に起因する点でユニークです。
- 過去のスタイリルピリリウムシステムは0.1 MJ kg⁻¹未満のエネルギー貯蔵密度でしたが、本研究のアントラセンシステムは約0.2 MJ kg⁻¹と優れたエネルギー貯蔵を示します。これは、二量化による高共役アントラセンの非芳香族化に起因します。
結論
- 本研究は、等温時間分解DSC、PXRD、固体NMRを用いて、ジアントラセン結晶中のアントラセンペアを特徴とする過渡的な中間相の初期形成、およびそれに続く最終的なアントラセン結晶への相転移という複雑な固相エネルギー放出メカニズムを明らかにしました。
- 固相逆環化の速度論的解析により、アントラセン誘導体の自己触媒反応における分子協調性が解明されました。
- 化学変換と相転移の両方が全体的なエネルギー貯蔵と放出に寄与することが、定性的かつ計算に基づいて定量的に区別されました。
将来の展望
- これらの根本的な知見と分析手法は、太陽光エネルギーを貯蔵し、自己触媒作用を通じて熱を放出する新規な固相MOSTエネルギー貯蔵化合物の設計と研究に貢献するでしょう。
用語集
- 分子太陽熱エネルギー貯蔵 (Molecular Solar Thermal, MOST): 太陽光エネルギーを化学結合として貯蔵し、必要に応じて熱として放出する技術。
- 二量化ジアントラセン (Dianthracenes): アントラセンが光によって二量体化した化合物。熱を放出することで元のアントラセンに戻る。
- 逆環化反応 (Cycloreversion): 環状分子が開環して元の非環状分子に戻る化学反応。ここではジアントラセンがアントラセンに戻る反応を指す。
- 示差走査熱量測定 (Differential Scanning Calorimetry, DSC): サンプルと基準物質の間の熱流量の差を温度の関数として測定し、熱反応を検出する分析手法。ここでは熱放出(発熱)を測定。
- 粉末X線回折 (Powder X-ray Diffraction, PXRD): 結晶性材料の構造情報を得るために使用される分析手法。ここでは結晶構造の変化や相転移を追跡。
- 固体NMR分光法 (Solid-state NMR spectroscopy): 固体の分子構造や運動性を分析する核磁気共鳴分光法。ここでは中間相の化学組成や反応速度を解明。
- 発熱ピーク (Exothermic peak): DSCで観測される、熱が放出される過程を示すピーク。
- 非ガウス型 (Non-Gaussian): 一般的な熱反応で観察される対称的なガウス曲線とは異なる形状。複数のプロセスが重なっていることを示唆。
- 中間相 (Intermediate phase): 反応の途中で一時的に形成される安定な相。ここではジアントラセン結晶中にアントラセンが混在した状態。
- 相転移 (Phase transition): 物質がある物理的状態から別の状態へ変化する過程。ここでは中間相から最終的なアントラセン結晶への変化。
- 自己触媒 (Auto-catalyzed): 生成物自体が反応を加速する触媒として機能するプロセス。
- 協調性 (Cooperativity): 一部の分子の変換が、周囲の分子の反応障壁を低下させ、さらなる反応を促進する現象。
- アブラミ理論 (Avrami theory): 相転移や結晶化の速度論を記述するために使用される理論。
- 密度汎関数理論 (Density Functional Theory, DFT): 量子力学的手法の一つで、物質の電子構造やエネルギーを計算するために使用される。
- 格子エネルギー (Lattice energy): 結晶格子を形成するイオンまたは分子が、無限に離れた気相状態から結晶を形成する際に放出されるエネルギー。ここでは結晶環境が関与するエネルギー変化を指す。
- 解離エネルギー (Dissociation energy): 分子内の結合を切断するために必要なエネルギー。ここではジアントラセンがアントラセンに解離する化学結合の変化に伴うエネルギー。
TAKE HOME QUIZ
- この研究論文によると、ジアントラセンの固相熱誘起逆環化反応は、トリガーされたエネルギー放出プロセス中に、具体的にどのような段階を経て進行すると明らかにされましたか?
- ジアントラセンの固相逆環化反応において観察された「一時的な中間相」は、固相NMR分析によって具体的にどのような化学組成を持つと特定されましたか?また、その存在は他にどのような分析手法で裏付けられましたか?
- 本論文において、ジアントラセンの熱誘起逆環化反応中にDSCで観察された「通常ではない」熱挙動とは具体的にどのようなものでしたか?また、その複数の発熱ピークが示唆するメカニズムは何ですか?
- ジアントラセンの固相逆環化反応における「自己触媒作用(auto-catalysis)」と「分子協同性(molecular cooperativity)」は、それぞれどのように説明され、高分子協同性が反応にどのような影響を与えると述べられていますか?
- 理論計算(DFT)の結果によると、ジアントラセンの逆環化反応による全体のエネルギー放出(ΔĒcry)はどのように定義され、その主要な寄与と副次的な寄与はそれぞれ何であると結論付けられましたか?
解答
本研究では、ジアントラセンが熱誘起によってエネルギーを放出する際に、以下の3つの段階を経ることが明らかにされています:
- 化学的解離 (chemical dissociation)
- 中間混合相の形成 (formation of a mixed intermediate phase)
- 最終的なアントラセン結晶への相転移 (phase transition to the final anthracene crystal)
固相NMR分析によって、この一時的な中間相は、ジアントラセン結晶中に存在するアントラセンのペアであると特定されました。新たに形成されたアントラセン分子が純粋なアントラセン結晶とは異なるパッキング環境にあるため、わずかに異なる化学シフトが観察されています。 この中間相の存在は、示差走査熱量測定(DSC)における非ガウス型の複数の発熱ピークや、粉末X線回折(PXRD)における初期段階でのピークシフトやその後の最終アントラセン結晶ピークの出現によっても裏付けられました。
DSCでは、非ガウス型の、複数の発熱ピークが観察されました。これは、従来の熱異性化や固相反応で一般的に見られるガウス型DSCプロファイルとは異なると説明されています。 この顕著な複数の発熱ピークは、一時的な中間混合相の形成が、DSCで検出可能なほど安定していることを示唆しています。これにより、化学変換と相転移という複数の発熱イベントが進行していることが示されました。
以下の通り。
- 自己触媒作用: ジアントラセン変換の時間依存性がS字型を示しており、これは固相での自己触媒的な逆環化反応を反映しているとされています。
- 分子協同性: 固相反応において、局所的に中間体または生成物が形成されることが、周囲の分子の反応の活性化エネルギーを低下させることで、さらなる反応を促進する挙動と定義されています。
- 高分子協同性の影響: 高い分子協同性を持つ反応では、局所的に形成されたアントラセン結晶が、最終的なアントラセン相を生成するために急速に伝播し、最終的に全体が最終アントラセン相で満たされることにつながると説明されています。
理論計算(DFT)によると、全体のエネルギー放出(ΔĒcry)は、結晶中のアントラセンとジアントラセンの平均エネルギー差として定義されます。これは、化学的解離エネルギー(ΔĒunit)と結晶格子安定化エネルギー(ΔĒlatt)の合計として表されます。 結論として、化学的解離エネルギー(ΔĒunit)が全体のエネルギー放出に対する主要な寄与であり、一方、格子エネルギー変化(ΔĒlatt)は副次的な追加エネルギー放出であると結論付けられました。
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