前回、「上っ面の話だけで申し訳ありませんが、また時間ができれば続きを書こうと思います。」と言ってから7年も経ってしまいました。信じられません。7年ぶりの続編です。
1. 概要と重要性
錯体化合物における「レドックスノンイノセント配位子」の概念、その電子構造、反応性、および触媒作用への応用にについて概説します。ノンイノセント配位子は、金属中心の酸化状態を明確に定義することを困難にする、金属と配位子の間の強い電子的相互作用が特徴です。これらは、多電子変換の促進、触媒反応の選択性の調整、または稀な酸化状態の金属を安定化させる「電子貯蔵庫」としての機能など、触媒作用において重要な役割を果たします。
2. 主要概念
2.1. ノンイノセント配位子とは何か?
定義: ノンイノセント配位子とは、配位錯体中の金属中心の酸化状態を明確に定義することを困難にする、金属と配位子の間の強い電子的相互作用を示す配位子のことです。これは、配位子が単に金属に電子を供与する「求核性配位子」とは対照的です。
一番上の式は典型的なコバルトアンミン錯体のレドックス(酸化還元)挙動ですが、二番目の式はノンイノセント配位子を有するコバルト錯体の酸化挙動を模式的に表したものです。(模式図とはいえあまりいい図式ではないかもしれません。理由は、コバルト中心の酸化数を電荷で書いたり、価数で書いたりしてしまっているからです。とはいえ、一番目の式は塩化物イオンは遊離しているので、塩素をアニオンの形式で書くからには、コバルト中心もカチオンの形式で書きたいところ。一方で、二番目の式は、一番目の式と違ってコバルト中心の価数が変わらないように振る舞うイメージを、全体としてのアニオンとして書いています。酸化後は共有結合と配位結合が混ざった構造として書いて、個人的にはあまり好みではないごまかし構造で書いていますが、三番目の極限構造式で補完していただければと思います。)
三番目の式は、二番目の式の酸化後の構造を極限構造の形式で表しています。
特徴:
- 曖昧な酸化状態: ノンイノセント配位子を含む錯体では、電子が金属と配位子の両方に非局在化するため、金属と配位子のそれぞれの酸化状態を明確に割り当てることが困難になります。(先の式では、レドックス(酸化還元)挙動の違いを明確にするために、二番目と三番目の式で、ごまかし構造や極限構造を使って、あえて明確にコバルト中心の価数を書きましたが、実際はコバルト中心も含めて非局在化しているケースもあります。)
- レドックス活性: これらの配位子は、電子を供与または受容する能力があるため、触媒サイクル中に自身で酸化還元変化を受けることができます。
- 「電子貯蔵庫」: 多電子変換を必要とする反応において、配位子が電子貯蔵庫として機能し、金属が非典型的な、高エネルギーの酸化状態を取ることを回避できる場合があります。
- 構造的変化: 配位子の酸化状態の変化は、多くの場合、結合長の明らかな変化(例:C-N結合、C=C結合)に反映されます。
ノンイノセント配位子の種類:
- o-フェニレンジアミン誘導体: o-フェニレンジアミン、o-アミノフェノール、o-アミノチオフェノールなど。これらは、2電子還元型、1電子酸化型(セミキノン型)、または2電子酸化型(キノン型)として存在できます。
- ジチオレン: 硫黄含有配位子で、そのレドックス活性と金属との強いπ相互作用により、広範に研究されています。
- 芳香族アゾ配位子: アゾ基の低エネルギーπ*軌道のため、多電子を受容できます。
- テトラシアノエチレン (TCNE) およびテトラシアノキノジメタン (TCNX): 低エネルギーπ*軌道を持つ「最もノンイノセントの」有機配位子として知られています。
- アミドフェノラート、カテコラート、イミノセミキノン: これらは、金属錯体中で異なる酸化状態を持つことができ、触媒作用において重要な役割を果たします。
- ホスファサレン配位子: イミンがイミノホスホランに置き換わったサレン配位子のリン類縁体。強い電子供与性、高い柔軟性、立体障害が特徴で、金属を稀な酸化状態に安定化させることができます。
2.2. 電子構造と結合
分子軌道 (MO) 理論と原子価結合 (VB) 理論: 電子構造の記述には、非局在化MOと局在化VBの概念を理解することが重要です。ノンイノセント配位子を含む錯体では、複数の共鳴構造が電子状態に寄与する場合があります。(Prof. Dr. Sabyasachi SarkarとProf. Dr. Matthias Steinのやり取りなどは勉強になるで一読の価値あり。初報→コメント→返答)
- フロンティア軌道: 金属と配位子のフロンティア軌道(HOMO、LUMO)がエネルギー的に近接している場合、強い混合が生じ、明確な酸化状態の割り当てを困難にします。
- スピン状態とスピン密度: 開殻系では、スピン密度プロファイルは、電子が金属と配位子の間でどのように分布しているかを示す指標となります。反強磁性結合や多重配置基底状態も起こりえます。
- 配位子場逆転: 一部の錯体では、配位子のエネルギー準位が金属のd軌道よりも高く、通常とは逆のエネルギー順序を示します(先のProf. Dr. Matthias Steinのコメントでもこれに関する指摘がありました)。これは、配位子からの強い電子供与またはπ-バックドネーションによって生じ、電子分布、配位子ジオメトリ、反応性に影響を与えます。
2.3. ノンイノセント配位子を含む金属錯体の特徴付け
- X線結晶構造解析: 結合長の分析は、配位子の酸化状態(例:C-N、C=C結合の長さの変化)と金属-配位子の相互作用を明らかにします。
- 電気化学 (サイクリックボルタンメトリー): 酸化還元電位は、錯体全体の電子移動プロセスに関する情報を提供します。高い還元電位はノンイノセント配位子を示す場合がありますが、常にそうとは限りません。
- 電子分光法 (UV-Vis-NIR): 電子吸収バンド(特にMLCT、LLCT)の変化は、電子密度再分布と酸化状態変化を反映します。
- EPR/NMR分光法: 開殻種のスピン密度分布に関する実験的情報を提供します。NMR化学シフトは、スピン非局在化を示す場合があります。
- X線吸収分光法 (XAS): K-edge XANESは、酸化状態、配位子場強度、スピン状態に関する詳細な局所情報を提供します。
- DFT計算: ノンイノセント配位子を含む錯体の電子構造、スピン密度、および反応経路の計算に不可欠なツールです。対称性破壊アプローチは、異なる電子密度局在化に対応する状態を見つけるのに役立ちます。
2.4. 触媒作用における役割
- 電子貯蔵庫として: 多電子変換において、配位子が電子を受容または供与することで、金属が不安定な酸化状態を取ることを回避します。これは、第1列遷移金属において特に有用です。
- 反応性配位子ラジカルの生成: 配位子ラジカルは、触媒サイクル中の共有結合の形成/切断に積極的に関与できます。
- 金属の電子的性質の調整: 配位子の酸化/還元は、金属のルイス酸性度/塩基性度を調整し、触媒活性と選択性に影響を与えます。
- 配位子-金属協同触媒作用 (MLC): 配位子と金属が相乗的に作用し、通常では困難な反応を促進します。これには、配位子がプロトン移動機能を持つ場合や、ヒドリドとプロトンが配位子と金属間で協同的に移動する場合が含まれます。
- 水素生成/貯蔵: 配位子-金属協同作用は、水酸化やアルコール脱水素化による水素生成、または水素貯蔵に応用されます。
- C-C結合形成反応: 酸化性付加/還元的脱離反応において、配位子が電子移動を促進することで、金属の酸化状態変化を伴わずにC-C結合形成を可能にします。
- 水の酸化 (Water Oxidation): ノンイノセント配位子は、多電子が関与する水の酸化反応においてレドックス(酸化還元)当量を蓄積し、高原子価中間体を安定化させることで重要な役割を果たします。
- その他の応用例: CO2還元、不活性結合の活性化、アジリジン化、C-H結合アミノ化、ヒドロシリル化、芳香族化合物の脱水素化、水素化など。
3. ノンイノセント配位子を利用した触媒反応の具体的な例
ノンイノセント配位子を利用した触媒反応には、様々な種類の有機反応やエネルギー変換プロセスが含まれます。
- 水の酸化反応: ルテニウム、マンガン、イリジウム、ニッケル、銅などの錯体がノンイノセント配位子(NIL)とともに水の酸化触媒として機能します。
例えば、田中触媒 ([Ru2(btpyan)(3,6-tBu2C6H2O2)2(OH)2]2+)は、レドックス活性なジオキソレン配位子を利用して水の酸化を促進し、高原子価Ru種の形成を回避することで効率的な触媒サイクルを可能にします。ルテニウム (Ru) 錯体では、配位子の酸化状態が触媒サイクルにおける鍵中間体の電子構造に影響を与えます。例えば、[Ru(trpy)(3,5-tBu2C6H2O2)(OH)2]2+ (田中触媒のモノマー種) のpH依存性酸化還元化学は、Ru(dπ)–NIL(π*) および Ru(dπ)–NIL(π) 結合相互作用によって反応性が決定されることを示しています。この錯体では、[RuII(trpy)(NILOx)(OH2)]2+ から Class B 種の [RuII(trpy)(NILOx)(OH)]+、さらに Class C 種の [RuII(trpy)(NIL•)(O•−)]0 への進行が観測され、最後の種は反応性が高くプロトンを引き抜いて [RuII(trpy)(NIL•)(OH)]0 を形成します。一方、ルテニウム二核錯体 [(RuII)2(OH)2(3,6-tBu2Q)2(btpyan)] は、レドックス活性なノンイノセントキノン配位子を持ち、水の酸化に対して顕著な電極触媒活性を示します。その構造中の2つのヒドロキシド配位子の配向が、分子内での酸素結合形成に重要な役割を果たします。
ニッケル (Ni) 錯体においても、水の酸化のメカニズムはpH依存的であり、Ni(II) から Ni(III) への酸化はプロトン共役電子移動 (PCET) を介してヒドロキソ種を形成することで起こります。
特定のオキシイミネート配位子 (>NO−) を持つ銅触媒も、単一電子可逆酸化によって酸化ニトロキシルラジカル (>NO•) を生成することで、ノンイノセント酸化挙動を示し、O–O結合形成の主要段階に影響を与えます。
- 水素化/ヒドロシリル化/アミン化: Fe錯体による不飽和種のヒドロシリル化、Pd錯体によるC-H結合のアミン化などが、配位子のレドックス活性を利用して進行します。
鉄触媒を用いたCO2水素化反応において、配位子はH2の不均一開裂やレドックス等価物の貯蔵を促進する機能的な役割を果たします。ピラジン骨格を持つピンサー触媒は、ヘテロサイクルの芳香族性を乱すことで、金属-配位子協同触媒 (MLC) 反応性を回復させ、CO2および炭酸塩のギ酸への水素化を可能にします。
例えば、ジチオレン錯体は水素発生触媒として報告されています。コバルトジチオレン錯体 [TBA][Co(bdt)2] は、プロトン還元において高い触媒活性を示し、光化学的水素発生でTON 2700を達成しました。ノンイノセントFeジチオレン錯体は触媒的水素発生に用いられ、最も高いTON 29,400を示しました。
一方、ルテニウムのピンサー錯体は、メタノールと水からのクリーンな水素生成に成功しています。配位子のNH部分が脱プロトン化され、活性な触媒となることで、基質から金属へのH-移動、および隣接窒素へのH+移動というNoyori型メカニズムを示唆しています。
用語集
ノンイノセント配位子 (Non-innocent Ligands): 金属と配位子の間の強い電子的相互作用により、金属の酸化状態を明確に定義することが困難な配位子。自身も酸化還元活性を示す。
電子貯蔵庫 (Electron Reservoir): 多電子変換を必要とする反応において、配位子が電子を受容・供与することで、金属が不安定な酸化状態をとることを回避する機能。
配位子-金属協同触媒作用 (Metal-Ligand Cooperativity, MLC): 配位子と金属が相乗的に作用し、触媒サイクル中の素反応(特に結合形成/切断)に積極的に関与する触媒作用のメカニズム。
レドックス活性配位子 (Redox-active Ligands): 酸化還元変化を受け、電子を供与または受容できる配位子。
配位子場逆転 (Inverted Ligand Field): 配位子のエネルギー準位が金属のd軌道よりも高くなる、通常とは逆の電子エネルギー順序。
原子価互変異性 (Valence Tautomerism): 温度などの外部条件に応じて、錯体の電子状態が異なる共鳴構造間を可逆的に変化する現象。
スピン密度 (Spin Density): 開殻系において、不対電子の密度が空間的にどのように分布しているかを示す指標。
サイクリックボルタンメトリー (Cyclic Voltammetry, CV): 溶液中の化合物の酸化還元特性を評価するための電気化学的手法。
電子分光法 (Electronic Spectroscopy): 化合物による光の吸収または発光を測定し、その電子構造に関する情報(例:MLCT、LLCTバンド)を得る手法。
X線吸収分光法 (X-ray Absorption Spectroscopy, XAS): 物質によるX線の吸収を測定し、元素の酸化状態や局所構造に関する情報(特にXANES)を得る手法。
密度汎関数理論 (Density Functional Theory, DFT): 電子構造計算に用いられる量子化学的手法。ノンイノセント配位子錯体の電子構造や反応メカニズムの予測に広く用いられる。
HOMO (Highest Occupied Molecular Orbital): 占有されている軌道の中で最もエネルギーが高い分子軌道。
LUMO (Lowest Unoccupied Molecular Orbital): 占有されていない軌道の中で最もエネルギーが低い分子軌道。
MLCT (Metal-to-Ligand Charge Transfer): 金属から配位子への電荷移動を伴う電子遷移。
LLCT (Ligand-to-Ligand Charge Transfer): 配位子間での電荷移動を伴う電子遷移。
水の酸化 (Water Oxidation): 水を酸素とプロトン、電子に分解する反応。エネルギー変換技術において重要。
TAKE HOME QUIZ
- ノンイノセント配位子が「電子貯蔵庫」として機能するとは、どのような意味ですか?
- X線結晶構造解析がノンイノセント配位子の特性評価にどのように役立ちますか?
- ノンイノセント配位子を含む錯体における「配位子場逆転」とは何ですか?
- 配位子-金属協同触媒作用 (MLC) は、従来の金属中心触媒作用とどのように異なりますか?
- 水の酸化触媒作用におけるノンイノセント配位子の主な利点は何ですか?
- DFT計算がノンイノセント配位子の電子構造研究において特に有用である理由を説明してください。
- EPR分光法は、ノンイノセント配位子を含む開殻錯体の研究にどのような情報を提供しますか?
- 配位子由来のラジカルが触媒作用においてどのように機能しますか?
- ノンイノセント配位子の「多重配置基底状態」とは、どのような意味ですか?
解答
- ノンイノセント配位子は、「電子貯蔵庫」として機能することで、多電子変換が必要な触媒反応において、金属が非典型的な高エネルギー酸化状態を取ることを回避します。配位子自身が電子を受容または供与し、金属の酸化状態をより安定した状態に保つことを可能にします。
- X線結晶構造解析は、配位子の結合長の明らかな変化を検出することで、ノンイノセント配位子の特性評価に役立ちます。例えば、C-N結合やC=C結合の長さの変化は、配位子の酸化状態の変化を直接的に示します。
- ノンイノセント配位子を含む錯体における「配位子場逆転」とは、配位子のエネルギー準位が金属のd軌道よりも高くなる状態を指します。これにより、通常とは逆のエネルギー順序で軌道が埋められ、電子分布や反応性に影響を与えます。
- 配位子-金属協同触媒作用 (MLC) は、配位子が単なる観客の役割ではなく、触媒サイクル中の素反応、特に共有結合の活性化と形成/切断に積極的に関与する点で異なります。これにより、金属単独では困難な反応も促進されます。
- 水の酸化触媒作用におけるノンイノセント配位子の主な利点は、多電子反応に必要なレドックス当量(電子とプロトン)を蓄積する能力があることです。これにより、高原子価の金属中間体を安定化させ、触媒サイクル全体のエネルギー障壁を低下させることができます。
- DFT計算は、ノンイノセント配位子を含む錯体の電子構造、スピン密度分布、および可能性のある反応経路を原子レベルで予測・可視化できるため、非常に有用です。特に、対称性破壊アプローチは、複数のエネルギー的に近い電子状態を区別するのに役立ちます。
- EPR分光法は、ノンイノセント配位子を含む開殻錯体の研究において、スピン密度が金属と配位子の間でどのように分布しているかを示す実験的情報を提供します。これは、金属と配位子の間の電子的相互作用の性質を解明するのに役立ちます。
- 配位子由来のラジカルは、触媒作用において、基質の共有結合形成や切断に直接関与することで機能します。これにより、金属が関与する従来のメカニズムでは達成が難しい、新しい反応経路や選択性を開拓できます。
- ノンイノセント配位子の「多重配置基底状態」とは、錯体の基底電子状態が、単一の電子配置では十分に記述できず、複数の異なる共鳴構造または分子軌道配置の組み合わせによって表現される状態を指します。これは、金属と配位子の間の電子非局在化が非常に強い場合に発生します。
0 件のコメント:
コメントを投稿