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2025年9月29日月曜日

古典日本有機合成化学~その1~久原躬弦らによるベックマン転位に関する一連の研究

論文のタイトル: ベックマン轉位に就て

一連の論文に関わった著者: 久原躬弦*、藤堂良譲、甲斐荘楠香、岡田徹平、水津嘉之一郎、松宮馨、松波直彦

雑誌名: 東京化學會誌
巻・頁・年: 
  • 第一報、第三十二帙、一三二頁、明治四十四年(1911年)
  • 第二報については、第三報によれば同誌の三八七頁にあるとのことだったがその前後のページは見当たらなかった(ご存じの方がいれば是非ご連絡いただきたい)
  • 第三報、第三十五帙、二四〇頁、大正三年(1914年)
  • 第四報、第三十六帙、二〇九頁、大正四年(1915年)
  • 第五報、第三十六帙、四六五頁、大正四年(1915年)

背景

1: 研究の背景

  • ベックマン転位の理論: 1900年当時、ベックマン転位(1886年に報告)のメカニズムについては、多くの化学者によって様々な理論が提唱されていた。
  • 研究材料の不足: しかし、それらの理論を裏付けるための研究材料が不十分であったため、まだ満足のいく結論には至っていなかった。
  • これまでの研究: C. H. Sluiterはメチルフェニルケトオキシムの転位速度を測定し、一次反応に相当する結果を得ている。(参照
  • 本研究の重要性: 本研究は、異なる条件下での転位速度を測定し、反応機構を詳細に解明することを目指したものであり、当時、この分野の理解を深める上で重要であった。

2: 研究のギャップと戦略

  • 未解決の問題: 従来の理論では、転位反応がなぜ、またどのような条件下で進行するのか、特に反応試剤がどのように影響を与えるのかが明確ではなかった。
  • 研究のギャップ: 特に、ケトオキシムから生成する中間体の存在や、その中間体がどのように最終生成物へと変化するのかという具体的な過程は、仮説の段階に留まっていた。
  • 戦略1: 種々の塩化アシル基がジフェニルケトオキシムの転位に及ぼす影響を調査し、転位速度を測定すること。
  • 戦略2: 塩酸によるアセチルジフェニルケトオキシムの転位速度を測定し、反応機構を考察すること。

3: 具体的な研究目的

  • 目的1:転位機構の解明: 一連の実験結果に基づき、ベックマン転位の反応機構に関する新たな説を提唱すること。
  • 目的2:酸根(カウンターアニオン)の役割の検証: 転位反応における「酸根」の存在が必須条件であるという仮説を立て、これを実験的に検証すること
  • 目的3:中間体の単離と合成: 転位反応の途中で生成されると推定される中間体(イミド酸置換体のアシル誘導体)を実際に単離し、また別途合成すること。
  • 期待される成果: これらの目的を達成することで、ベックマン転位の本質をより明確にし、確固たる理論を構築することが期待される。

方法

1: 研究デザインの概説

  • 本研究は、特定の条件下で化学反応を進行させ、その生成物と反応速度を測定する実験的研究である。
  • 主要な実験1: ジフェニルケトオキシムと種々の塩化アシル基(塩化アセチル、クロロアセチルクロリド、ベンゼンスルホニルクロリド)との反応。
  • 主要な実験2: アセチルジフェニルケトオキシムと塩酸との反応。
  • 主要な実験3: 転位反応の中間体と推定される化合物の合成と、その性質の確認。

2: 反応条件と手順

  • 反応物質: 主にジフェニルケトオキシムとその誘導体を使用した。試剤として塩化アセチル、クロロアセチルクロリド、ベンゼンスルホニルクロリド、塩酸などを用いた。
  • 溶媒と濃度: 反応はクロロホルム溶媒中で行い、多くの場合、反応物の濃度は1/2規定溶液とした。
  • 温度管理: 反応は60℃の恒温槽や沸騰水中など、一定の温度条件下で実施した。反応後の進行を防ぐため、前後の処理は氷中で行った。
  • 手順の概略: 反応物を閉鎖管に封入し、一定時間加熱後、反応を停止させた。その後、溶媒を除去し、生成物を分離・精製した。

3: 主要評価項目と測定方法

  • 主要評価項目: ベックマン転位の生成物であるベンズアニリドの生成量。
  • 定量方法:
    1. 反応後の混合物からクロロホルムを蒸発させる。
    2. 残渣を20%苛性ソーダ溶液で処理し、不溶物を濾過・洗浄する。
    3. 不溶物を酒精(アルコール)に溶かし、再度濾過して蒸発乾固させる。
    4. 得られたベンズアニリドを110℃で乾燥させた後、秤量した。
  • 生成物の同定: 得られたベンズアニリドが純粋であることは、融点が158-159℃であることを確認して保証した。

4: 統計・解析手法

  • 反応速度の解析: 実験結果から、転位は一次反応に属するものと推定した。
  • 速度定数の算出: 以下の一次反応の速度式を用いて、反応速度定数(K)を算出した。
    • 0.4343 K = 1/t log(a / (a-x))
    • t: 時間, a: 初濃度, x: 時間tにおける生成物の濃度
  • 結果の解釈: 異なる反応試薬を用いた場合のベンズアニリド生成率(%)や、算出された速度定数を比較することで、反応機構を考察した。
  • 補足: 反応初期の速度定数に多少の変動が見られたが、これは閉鎖管内の物質が恒温槽の温度に達するまでの時間的遅れが原因と考察された。

結果

1: 塩化アシル基の反応性の違い

  • ジフェニルケトオキシムに3種類の塩化アシル基を60℃で作用させた結果、転位速度に顕著な差が見られた。

  • 塩化アセチル: 10分間では全く反応せず、15分でようやく2.4%がベンズアニリドに変化した。

  • クロロアセチルクロリド: 10分間で半分以上が転位した。

  • ベンゼンスルホニルクロリド: 10分間でほぼ全てがベンズアニリドに変化した。

  • 結論: 転位の速さは、塩化アシル基の元となる酸の強さ(解離定数の大きさ)と一致する傾向を示した。

2: アセチル体の転位と温度の影響

  • 塩化アセチルによる転位: 60℃では、塩化アセチルによるジフェニルケトオキシムの転位は程よく進行した。
  • 塩酸によるアセチル体の転位: 一方、アセチルジフェニルケトオキシムに塩酸を作用させた場合、60℃では転位が極めて緩慢でほとんど認められなかった。
  • 高温での反応: しかし、同じ反応を沸騰水(約100℃)の温度で行うと、転位は非常に迅速に進行した。
  • 考察: 同一温度では両者の反応性に違いが見られた。これは反応時に生成する塩酸の状態(塩酸塩か遊離か)の違いによるものと推察される。

3: 中間体の単離と合成

  • 目的: 転位反応の中間体として仮定したイミド酸エステルを実際に得ることを目指した。
  • アセチルエステルの場合: アセチル体は酸の助けがないと転位しないため、中間体(酢酸フェニルベンズイミド)を遊離状態で得ることは不可能だった。
  • スルホニルエステルの場合: ジフェニルケトオキシムのベンゼンスルホニルエステルは、加熱により自発的に(爆発的に)転位し、目的の中間体(ベンゼンスルホン酸フェニルベンズイミド)を遊離状態で得ることに成功した
  • 別途合成による証明: さらに、この中間体(黄色油状物質)を塩化フェニルベンズイミドとベンゼンスルホン酸銀から別途合成し、転位生成物と同一であることを物理化学的性質(吸収スペクトルなど)から確認した。

考察

1: 酸根(カウンターアニオン)の陰性度と転位速度

  • 発見: オキシムの転位速度は、反応によって生成するオキシムエステルに含まれる酸根の陰性の強さと密接な関係がある。
  • メカニズム:
    1. 酸根の陰性が強いほど、窒素原子との結合が弱くなり、不安定な系を形成する。
    2. このため、酸根が窒素から解離しやすくなる傾向が強まる。
    3. 酸根の解離が引き金となり、炭素に結合した炭化水素基が窒素へ移動し、酸根が炭素と結合するという位置交換(転位)が容易に起こる。
  • 重要性: この発見は、転位反応の駆動力は酸根の化学的性質(陰性度)に起因するという、反応機構の核心に迫るものである。

2: 転位における酸の役割

  • 発見: 陰性の弱い酸根を持つエステル(例:アセチルオキシム)の転位には、塩酸のような外部の酸の存在が必須である。
  • メカニズム:
    1. アセチルオキシムは、塩酸と反応して塩酸塩を形成する。
    2. これにより、窒素原子に添加された塩酸の影響で、酢酸根の陰性がさらに増大する。
    3. 結果として、酢酸根が窒素から分離する傾向が強まり、転位が進行する。
  • 対照的な例: 一方、陰性の強いベンゼンスルホニルオキシムは、外部の酸の助けがなくても自発的に転位する。
  • 重要性: この発見は、酸が触媒としてだけでなく、反応中間体の化学的性質を変化させることで転位を促進するという具体的な役割を明らかにした。

3: 先行研究との比較(支持)

  • Sluitterの研究: Sluitterは転位反応が一次反応に相当することを示唆しており、本研究で一次反応式を用いて速度定数を算出したことと整合する。
  • Beckmannの研究: Beckmannは、ジフェニルケトオキシムが塩化アセチルと作用してエステルを生成し、その後、副生する塩酸によって転位が起こることを記述している。これは、本研究の「アセチル体の転位には酸が必要」という結論を支持する。
  • Hantzschの研究: アセチルベンズヒドロキサム酸は温和な加熱でジフェニル尿素を生成(転位が起こる)するが、ベンズヒドロキサム酸は煮沸しても分解しない。これは、転位にアセチル基(酸根)の存在が重要であるという本研究の主張を強く支持する。

4: 先行研究との比較(発展)

  • ThieleとPickardの説: 彼らはジベンズヒドロキサム酸の転位において、イソシアン酸エステルが中間体として生成すると提唱した。
  • 本研究の発展: 本研究では、彼らの説を発展させ、転位の根本原因は酸根の解離にあり、その結果としてイミノ炭酸誘導体(本研究で単離・合成した中間体)が生成し、それが分解してイソシアン酸エステルになるとした。
  • Mummの研究: Mummは塩化フェニルベンズイミドからアシルベンズアニリドを合成したが、反応中間体(イミド酸エステル)の単離には至らなかった。
  • 本研究の貢献: 本研究では、小玉氏らの研究を引き継ぎ、ベックマン転位の過程で生成が仮定されていた中間体を世界で初めて単離・合成し、その存在を実験的に証明した

5: 研究の限界点

  • アセチル体中間体の単離: 酢酸フェニルベンズイミド(アセチル基を持つ中間体)は非常に不安定であり、遊離状態で純粋に得ることは困難であった。
  • 合成の難しさ: 塩化フェニルベンズイミドに金属の酢酸塩を作用させる方法でも、目的物ではなく分解物であるベンズアニリド等が生成することが多く、安定した合成条件を見出すことができなかった。
  • 反応初期の測定精度: 反応初期における速度定数には、実験装置の温度が安定するまでの時間的遅れによる多少の変動が見られた。

結論

  1. ベックマン転位は、オキシムエステル中の酸根の解離が引き金となる分子内転位である
  2. 転位の速度は酸根の陰性の強さに比例し、陰性が弱い場合は外部の酸が転位を促進する。
  3. 転位反応の中間体であるイミド酸エステル(ベンゼンスルホン酸フェニルベンズイミド)の存在を、単離と合成によって初めて実験的に証明した
  • 分野への貢献: これらの結果は、長年の謎であったベックマン転位の反応機構に明確な説明を与え、その本質が「イミド酸置換体のアシル誘導体を経由する反応」であることを実証した。

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